嘉永5年(1852年)1月、伊予国大洲藩御典医・菊山玄渓の三男として生まれた。慶應元年(1865年)、遠縁にあたる陶家の養子となって同家を再興し、以後陶不窳次郎を名乗った。
廃藩置県後の明治6年(1873年)、愛媛県吏(等外二等)に採用されたが間もなく辞任。翌明治7年(1874年)、板垣退助らの影響を受けて高知を訪れ、帰郷後は大洲藩士族約60名を糾合して政社・集議社を結成した。集議社は愛媛県で最初期の民権結社とされ、陶はその中心人物として活動した。
明治8年(1875年)2月の大阪会議後、各県有志の会同に招かれ、同年5月の愛国社創立総会には集議社代表委員として参加している。板垣が参議に復帰すると上京し、元老院中書記生に採用された。この時期、北垣国道と知己を得て、以後生涯にわたる交流を持った。
その後、板垣の辞任に伴い元老院を退職して再び地方官界に戻り、北垣の縁により高知県警部に転じた。明治9年(1876年)には愛媛県十二等出仕、続いて警部に任用され、明治10年(1877年)の西南戦争当時は高松警察署詰七等警部として県警察の中枢的地位にあった。
以後、警察官僚として昇進を重ね、明治15年(1882年)6月13日、京都府警察部が警察本部と改称された際、初代警部長として任命され、明治18年(1885年)12月15日まで在任した。同日付で山形県警部長に転じ、その後も明治20年(1887年)に京都府与謝郡長、明治24年(1891年)に山梨県警部長、明治25年(1892年)には北海道庁警部長を務めて官界生活の最終段階を迎えた。
北海道在住時には札幌区会議員も務めたが、明治40年(1907年)に郷里の喜多郡久米村へ帰郷。大正2年(1913年)に死去した。