北垣国道
日本の志士・官僚・政治家
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略歴
1836年(天保7年)、但馬国養父郡能座村(現:兵庫県養父市)に生まれる。6歳の時の1841年(天保12年)、池田草庵の私塾「青谿書院」で学んだ。1863年(文久2年)、公卿澤宣嘉を主将とし、河上弥市、平野国臣らと生野銀山にて挙兵(生野の変)するも敗れ、進藤俊三郎(原六郎)らと因幡(鳥取藩)、ついで京都、江戸(桶町千葉道場→赤坂桧町の長州藩邸)を経由し長州へ潜伏した。間諜と間違えられ首を切られそうになるが、森寛斎の取り成しによって命を救われ、のちに松田道之の推挙で鳥取藩に仕官する。
1868年(慶応4年)1月、戊辰戦争に際し、山陰道鎮撫使の西園寺公望に供奉、同年8月には北越戦争に参戦。1869年(明治2年)、弾正台の大巡察となる。1871年(明治4年)、開拓使七等出仕。1875年(明治8年)、元老院少書記官となる。1879年(明治12年)、高知県県令に就任し、翌1880年(明治13年)には徳島県県令を兼任。1881年(明治14年)、京都府知事となり1892年(明治25年)まで在任。1883年(明治16年)10月2日、宮内大書記官を兼任[1]。京都府知事在任中の1890年(明治13年)には琵琶湖疏水を完成させる。
1892年、北海道庁長官に就任し、1896年(明治29年)には拓殖務次官となる。同年6月5日、維新の功により男爵を叙爵[2]。1899年(明治32年)8月14日、錦鶏間祗候[3]となり、8月22日には貴族院議員に勅任され[4]、1912年(明治45年)5月15日まで在任している(男爵の互選ではない)[5]。1912年5月8日、枢密顧問官に任命される。
1916年(大正5年)、京都で死去。
栄典
- 位階
- 1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[6]
- 1891年(明治24年)5月27日 - 従三位[7]
- 1897年(明治30年)10月11日 - 正三位[8]
- 1908年(明治41年)10月20日 - 従二位[9]
- 1916年(大正5年)1月16日 - 正二位[10]
- 爵位
- 勲章等
- 賞杯等
功績と評価
高知県令
琵琶湖疏水

北垣が京都府知事に着任した頃の京都の街は、東京奠都などにより東京や大阪などへの人口流出、産業衰退により、都市としての活力が失われつつあった。北垣は、京都の勧業政策として琵琶湖から京都までの疏水建設によって、灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画した。
疏水の設計は工部大学校(後の東京大学工学部)を卒業した京都府技師の田辺朔郎が進め、4年8ヶ月の大工事で完成させた。工期途中で視察のためアメリカ合衆国を訪れた田辺は、当初の計画になかった水力発電を取り入れ、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所を建設し、1895年(明治28年)には京都・伏見間で日本初となる路面電車(京都電気鉄道)の営業運転が始まることとなった。
琵琶湖疏水建設は、国や京都府の財政支出のみならず、市債や寄付金などのほか、市民に対しての目的税をも財源とし、府民と一体となって取り組んだ。さらに、京都商工会議所などの創設などに尽力し、近代産業都市としての京都建設に大いに貢献した。
田辺と二人三脚で挑んだ琵琶湖疏水工事の物語が大阪書籍の小学校社会科教科書に掲載されていた。現在の京都の政財界において、歴代京都府知事の中で北垣を高く評価する人々が多い。
第三高等中学校関連
当時大阪市にあった第三高等中学校が京都市内の吉田山に移ったが、その際の新しい校舎の開校式に京都府知事として出席した[33]。この学校は、1894年(明治27年)に第三高等学校と改称した[33]。吉田山の第三高等学校は、現在の京都大学にあたる[要出典]。
剣術の振興

前任の京都府知事槇村正直は府令をもって剣術を禁止したが、北垣は知事に就任するや椹木町に「体育場」と称する大道場を設立して剣術を奨励した。1895年(明治28年)、京都に大日本武徳会が設立され、北垣は大日本武徳会の役員を務めた。
高野佐三郎は北垣国道の剣術について、「北垣(国道)男爵は山岡流であるが、実に柔らかでした。あれが本当の山岡流です。一般のゴチゝしたのが山岡流とは言えません」と称えている。
北海道庁長官時代
- 1892年(明治25年)、もともと港湾部が浅かった上に土砂の堆積が重なって大型船の接岸が不可能になっていた函館港の改修についての要望書『函館港湾浚渫修築并ニ船渠設置意見上申書』の提出を受け、港内の浚渫や砂防堤・防波堤・灯台の設置、埋立てによる埠頭の建設などの改良工事を指示した。1898年(明治31年)竣工。
- 北海道庁長官時代の1894年(明治27年)3月、北海道の拓殖と防備を兼ねて北海道官設鉄道を計画。女婿となっていた田辺を招聘し、建設のための調査を依頼した。田辺は上川線(現函館本線の一部)の空知太(現滝川市)〜旭川市間を手始めに、のちの宗谷本線、根室本線の一部となる区間の調査と建設指揮にあたった。
著書
家族
妻のタネは子爵河田春雄の養叔母[34]。長男の確は同志社英学校から慶応中学に転校し、京都市立工芸美術学校を出て日本画家となり、北垣静處と号す[35]。大礼使典儀官も務めた[36]。その長男の北垣晋一も静林と号した画家[36]。
次男の守は京都府京都商業学校卒業後、近衛歩兵第一連隊第5中隊に入隊、除隊後、見習士官教育訓練を受けたが、小樽銀行の行員となり、農商務省在外研修員として外遊後、陸軍副隊長として日露戦争に出陣したのち、33歳でロンドンに留学して語学学校に通い、父親の没後、1917年(大正6年)に目黒に児童教養研究所を設立[35]。その妻シマは北海道銀行頭取・添田弼の長女[34]。
三男の旭は1905年(明治38年)にアナポリスの海軍兵学校 (アメリカ合衆国)に入学[37]、海軍軍人から漁業会社社長となり、四男の元は札幌農学校で学び一時、守の研究所を手伝った[35]。長女は田辺朔郎に嫁ぎ、三女(養女)は下村孝太郎に嫁いだ[35][34]。