陶武護
室町時代後期の武将
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生涯
父が文明14年(1482年)5月27日に吉見信頼に殺害されたため(大内山口事件)、家督を継いだが、幼年のために叔父の陶弘詮(右田弘詮)の後見を受けた。 1483年には政弘が弘詮に宛てた書状では「三郎幼稚候」との文言がある[3](幼名で記載されていない)。
1488年の「大内氏壁書」に「陶中務少輔」の記載がある[4]。 1490年に「中務少輔武護」として発給した書状が残っている[5]。
その後、六角征伐に従軍する大内義興に従軍して京都に駐屯していた延徳4年(1492年)に突如、出奔して摂津国の天王寺にて出家し[6][7]、宗景を名乗る[8]。
そのため、陶氏の家督は弟の興明が継承したが、明応4年(1495年)になって宗景(そうけい)と号していた武護が突然帰国して、2月13日に興明を討ち取って家督を奪った[7]。
興明の殺害には内藤弘矩の同意があったとされる[9]が、政弘の承認を得た大内義興が明応4年2月23日付で安芸国人阿曽沼氏に安芸国能美島(広島県江田島市)周辺での武護捜索を命じて[10][11]、武護は高野山に赴き[8]、最期は姫山(現・山口市)で討死した[12]。
明応4年2月28日にはその内藤弘矩とその子内藤弘和が「中務少輔武護為」に誅殺された[13]。
ところが、内藤弘矩父子の死について、弘矩を讒言したとされる陶武護に与同を企てたため、先代当主の大内政弘によって殺害されたとする逆の説[14]も伝えられている[15]。また、武護による陶氏当主・興明殺害自体が大内氏に対する反逆とも解され、その直後(15日後)に内藤弘矩が殺害されるなど、時系列的に不可解な点が見受けられる。実際に大内義興は明応4年6月19日付で東福寺に充てた書状にて「陶中務入道宗景(武護)不儀を企て候の間、成敗を加え候につき、尊書拝見つかまつる」と記しており、この時までに義興によって武護が討たれていた可能性が高い[16]。
陶氏の家督は弟の陶興房が継いだ。