陶隆満
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誕生
明応6年(1497年)に陶弘詮の息子[1]として生まれた[2]。兄に興就、妹に観室永喜がいる。
このころ、大内氏当主・大内義興は肥前国の少弐政資を自害に追い込んだものの、合戦は翌年まで続くなど、戦乱は続いていた。持長はそのさなかに生まれたのだった。
義興期の動向
永正4年(1507年)、義興は前将軍足利義尹を擁して上洛、兄・陶興就は本国留守居役となった父・弘詮の代わりに上洛に供奉し、上洛中は三条西実隆に海産物を贈るなどの活動をしていた。
しかしながら、興就は永正8年9月(1511年)ごろに消息を絶ち、持長が家督継承者として活動することとなった。
そんな持長が史料上に現れるのは、大内義興の当主在任期である大永3年(1523年)10月4日付の連署奉書である。このときから大永4年8月までは「散位」と名乗っている。杉興重(兵庫助)と共に、長崎弥八郎元康に「海上搦」について、毎日夜に馳走していることを弘中武長(越後守)が注進したため義隆へ披露した旨を伝えている[3]。
同月24日には弘詮が死去し、持長が家督を継いだ。
大永4年、持長は寺社奉行を兼任し[4]、また、同年8月には大内氏の宿老らと共に連署禁制を発給している。
また、大永6年(1526年)までには兵庫頭を称している[5]。
大永末期~享禄初期には伊予国中途島へ渡海し、現地の警固衆を統率する。
だが、享禄元年(1528年)12月には義興が薨去し、義隆の治世が始まる。
義隆期の動向
享禄2年(1529年)3月24日、隆満は大内氏宿老と共に、代替わり徳政の実施を公布する[6]。
享禄3年(1530年)10月、松崎天満宮の上棟に際し、結縁衆に名を連ね、また被官らと同様神馬1匹を寄進する[7]。
しかし、享禄5年(1532年)4月23日、陶持長の被官伊香賀就為(「就」字は興就からの偏諱)稲田長輔(「長」字は持長からの偏諱)・仁保真次が周防国衙候人の得富雅楽助・竹屋重孝・上司資和に対し、抱えている正税米を納めたいため請取人数を把握したく、商人らと話してほしいと申し出たものの、同月29日には同候人らが大内氏へ、持長の抱える国衙領7カ所が、徳政が発布されたのに対して返還されていないことを訴えたため、持長はすぐに返還している[8]。
同年には、大友義鑑が大内義隆によって上洛を妨げられているなど理由から、少弐資元と共に筑前・豊前へ侵攻を開始した。義隆はこれに対して大内軍を派遣した。
そして天文4年には持長は周防国吉敷郡氷上山興隆寺の修二月会の大頭役を務めた。[9]。
天文6年(1537年)、従五位下に叙任[10]。この年頃には安房守を称している。また、光井兼種を引き連れ安芸へ出陣した[11]。
天文7年(1538年)、大内氏・大友氏間の和平にて、大内氏側の正使として持長が出向き[12]、和平を成立させた。
このころ、安芸国の国衆・毛利元就の嫡男・毛利隆元が下向してきており、持長も隆元と対面している[13]。
そして、同年~10年(1541年)までの間に隆満へと改名する[14]。
天文10年には安芸銀山城の城督に就任する[15]。
出雲遠征以降の隆満
天文11年(1542年)、義隆は安芸・備後国の処理を終え、出雲に出陣する。隆満もこれに従っており、龍崎隆輔とともに、義隆の意を分国内外に伝える役割も果たしている。
だが、天文12年には尼子氏に敗退し、隆満も撤退することになる。
その後も隆満は活動を絶やさず、天文13年1544年には、陶隆房・多々良(詳細不明)・杉重矩・内藤興盛・杉宗長(興重の法名)・飯田興秀・弘中興勝・相良武任と共に分国の法度を公布している[16]。
天文16年(1547年)、遣明船派遣の条々を公布する[17]。
天文18年(1549年)、地下官人・真継久直の鋳物師活動に対して、鋳物師公事役を徴収するよう弘中隆兼・陶隆房・問田隆盛・杉興運に義隆の命を奉じた[18]。
大寧寺の変以降の隆満
天文20年(1551年)、陶隆房(のち晴賢に改名)の謀反に協力し、山口へ乱入して長門国に逃亡した大内義隆主従を死に追い込んだ(大寧寺の変)。変後も積極的に協力して、周辺の益田氏や周布氏に書状を送っている(『周布家文書』)。
翌21年(1552年)、大友義鎮の弟・大友晴英を新当主として擁立、翌22年(1553年)正月には、足利義輝より白傘袋・毛氈鞍覆を免許される[19]。
その後、天文24年(1555年)の厳島の戦いで、晴賢は毛利元就に敗北し自害する。その後、隆満は周防に侵入してきた毛利氏に降伏し、その家臣となった。
その後の消息は絶えたため死去または隠居した可能性もある。没年不詳。跡は隆秋が継いだ。