陸長源

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陸 長源(りく ちょうげん、生年不詳 - 799年)は、唐代官僚軍人は泳之[1]、または泳[2]本貫蘇州呉県

汾州刺史の陸璪の子として生まれた。経書史書を好んだ。乾元年間、昭義軍節度使薛嵩の幕府に召し出され、河北の諸反乱の鎮圧にあたった。長らくを経て、建州刺史・信州刺史を歴任した。浙西節度使韓滉が江淮転運使を兼領すると、長源は検校郎中となり、中丞を兼ね、転運副使をつとめた。罷免されて都官郎中となり、万年県令に転じ、汝州刺史として出向した[1][2]

貞元12年(796年)、長源は検校礼部尚書・宣武軍行軍司馬に任じられ、汴州の行政事務をみな決裁した。汴州では法を厳格に適用して、宣武軍を統制しようとしたため、憎まれることになった[1][2]

貞元15年(799年)2月[3]、宣武軍節度使の董晋が死去すると、長源は知留後事とされた。まもなく宣武軍が乱を起こし、長源は殺害された。長源が死んだ日に、かれを宣武軍節度使とする詔が下っていたが、この命を受けることはなかった。尚書右僕射の位を追贈された[4][2]。著書に『唐春秋』60巻[5]・『弁疑志』3巻[6]があった。

脚注

伝記資料

参考文献

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