陽嶠
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北斉の尚書右僕射陽休之の玄孫にあたる。儀鳳年間、八科挙に応じていずれも及第し、将陵県尉に任じられた。太子詹事府司直に累進した。長安3年(703年)、桓彦範が左御史中丞となり、袁恕己が右御史中丞となると、争って陽嶠を推薦したので、陽嶠は右台侍御史に抜擢された。景龍3年(709年)、国子監司業に転じた。陽嶠は恭謹にして学問を好み、儒者の風格があった。また統治につとめ、順序立てて善導した。先聖廟や講堂を修築し、前庭に碑を建てて、先儒の尊崇に道筋をつけた[1][2]。
景雲元年(710年)、睿宗が即位すると、陽嶠は尚書右丞に任じられた。都督府が建てる議論が起こると、陽嶠は涇州都督とされたが、ほどなく都督府が廃止されたため赴任しなかった。魏州刺史・兗州都督・冀州都督府長史を歴任し、河北道按察使をつとめ、任地では清廉潔白なことで知られた。魏州の人が宮殿を訪れて、陽嶠の赴任を求めたため、陽嶠は再び魏州刺史に任じられた。のちに入朝して国子監祭酒となり、北平県伯に封じられた。尹知章・范行恭・趙玄黙らを推薦して学官とし、みな名儒と称された。陽嶠は怠けた生徒を鞭打ったため、学生はかれを恨んで騒ぎ出し、連れ立って夜の街中でかれを殴打した。玄宗が事件を起こした学生を杖殺させた[3][4]。
陽嶠は身寄りのない甥を自分の子のように育てた。つねに「わたしは方伯の位に登っても、心はかつての県尉のころと変わらない」と人に語っていた。ほどなく老齢のため致仕した。家で死去した。諡は敬といった[5][4]。