高宗の末子として、格別の寵愛を受けた李旦は、文明元年(684年)、兄の中宗が母である武則天によって廃位されたことにより、帝位に即いた。しかし、その即位は武則天による傀儡政治であり、李旦自身には政治的な実権は全く存在しなかった。載初元年(690年)、武則天が自ら皇帝として即位すると、李旦は廃位された(武周)。
神龍元年(705年)、武則天の崩御直前に中宗が復位し(唐の再興)、李旦は安国相王に封じられた。景龍4年(710年)、その中宗が韋皇后によって毒殺されると、李旦は三男の李隆基(後の玄宗)と協力して韋后一派を排除し、甥の李重茂(殤帝)を廃して再び帝位に就いた。延和元年(712年)、李旦は玄宗に譲位し、太上皇帝と称した。開元4年(716年)、55歳で崩御した。