隆興の和議

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隆興の和議(りゅうこうのわぎ)もしくは乾道の和議(けんどうのわぎ)は、南宋の間に締結された講和条約。1165年(南宋の乾道元年/金の大定5年)に成立した。和平交渉は1164年隆興2年)に行われたが、最終的に合意されたのは年を越えた乾道元年であったため、二つの元号を混用することもある。この条約により、南宋と金は以後40年にわたる平和を得た。

背景

紹興31年(1161年)、金帝完顔亮中国統一を目指して南伐に出たが、采石磯の戦いで南宋軍の反撃を受けて敗北し、彼自身も陣中で起こった反乱によって殺された。金の南侵を阻止した南宋朝廷では北伐を求める声が大いに高まったが、それまで主和論を支持していた高宗の立場は困難となり、翌紹興32年(1162年)6月に養子の孝宗に帝位を譲った[1][2]

孝宗は北伐に対する強い意志を持ち、同じ時期に即位した金の世宗からの和平提案を拒否し、高宗在位期に左遷された張浚らの主戦派を重用した[1]。また、岳飛の冤罪を晴らし、その名誉も回復させた[3]。隆興元年(1163年)4月、張浚は淮水以北への出兵と孝宗の建康出陣を勧めたが、慎重論を貫いた太上皇高宗の影響下にあった陳康伯史浩などの他の大臣はこれに反対した。孝宗と張浚は三省枢密院を経由せずに出兵命令を下す非常手段により対金戦争を強行したが[4]、5月に南宋軍は宿州の近くで大敗した[1][5]。追い詰められた孝宗は高宗の圧力もあり、主和派の湯思退宰相に起用し、新たな和議の締結を模索させた[1][6]

和議

隆興元年(1163年)8月、南宋は金に講和使節を派遣した。孝宗は南宋軍が奪還した海州泗州唐州鄧州の4州を譲渡することは決して認めてはならないと厳命したが、湯思退は金国に支給する歳貢の減額を条件付きで可能であるという意向を示した[7]。孝宗は交渉に臨んだ使節を罷免することで不満を示したが、両国の名分関係を従来の君臣から叔姪に改善できるとの見通しから、和議の締結に同意した[1][8]。しかし、これに反発した主戦派と主和派の間の抗争が激化し、金軍が淮南を侵攻したため、交渉はしばらく中断された[1]。ついに隆興2年(1164年)11月、主和論が大勢を占めた南宋朝廷は和平を決議し、再び金との交渉に着手した[9]。12月、和議の内容を知らせる孝宗のが天下に下され[10]、翌乾道元年(1165年)正月には孝宗を「姪宋皇帝」と称した金の世宗の答書が伝えられたことで交渉は妥結した[11]

和議の主な内容は以下の通りである。

  • 1. 南宋と金は叔姪関係と定め、金の皇帝が叔父に、宋の皇帝が甥になる。南宋は金に臣下と称しない。
  • 2. 南宋が金に支給した「歳貢」は「歳幣」に改称される。
  • 3. 毎年の歳幣は20万両・20万疋とし、紹興年間より各々5万両・5万疋を減額する。
  • 4. 南宋は隆興年間に占領した海州・泗州・唐州・鄧州を金に返還し、秦州商州の2州を割譲する。その他の両国の国境線は戦争以前、すなわち紹興の和議で定められた状態と同じ状態に戻る。

南宋にとってこの隆興の和議は、以前の紹興の和議に比べて合理的であり、朝貢国という立場からも脱却した。しかし、依然として不平等な条約であり、南宋は華北の旧北宋領土を取り戻すことができず、北伐中に回復した領土もすべて放棄しなければならなかった。このような限界にもかかわらず、孝宗は宋朝の威信をある程度回復させることに成功したと言える。

脚注

参考文献

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