隠岐国駅鈴
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特徴
歴史
古代
隠岐国駅鈴が真作であるとすれば、古代の駅伝制に関連する遺物であるということになる。
近世 光格天皇と隠岐国駅鈴
近世には隠岐国造の億岐家が所有しており、億岐
天明8年(1788年)1月30日、洛中で火災が発生し御所も焼失した[7]。光格天皇は下鴨神社に避難し、その後は聖護院を仮御所としていた[8]。新しい御所は3年後に完成し、寛政2年(1790年)11月22日に遷幸が行われた[9]。遷幸の行列は聖護院から新御所までを大廻りに巡行し、市中に「強大な」朝廷の存在を知らしめる効果が意図されていた[10]。この行列を構成するなかに「主鈴」[注釈 1]と呼ばれた隠岐国駅鈴が存在した[11][注釈 2]。遷幸に先立つ寛政2年6月に、億岐幸生は駅鈴を持って上京するよう鷹司輔平の命を受けている[13]。
寛政3年(1791年)3月には、隠岐国造に対し、黄金1枚と駅鈴を収納する唐櫃が下賜されている[13]。
近代以降
1893年(明治26年)ごろ、駅鈴2口とも盗難に遭い、このとき唐櫃の一部が損壊されるという事件が発生した[14]。駅鈴2口はこの後すぐ神戸で取り返したという[15]。1935年(昭和10年)には旧国宝に指定された[16][注釈 3][注釈 4]。
滝川政次郎はその八稜鈴という形態、陽刻された「駅鈴」の文字、そして鈴尅の不在をもって後世の人物による贋作であると主張した[20]。特に動員できる駅馬の数を表示するための鈴尅(剋、刻)は駅鈴に不可欠であり、「剋なき鈴はただの鈴であって、駅鈴ではない」[21]と断じている[22]。隠岐国駅鈴を真作と考える樋畑雪湖は、鈴尅とは官符に記載されたものであり駅鈴自体には鈴尅が存在しなかったと推定したが[23]、これに対して滝川は坂本太郎によって示された『続日本紀』の「官符に伴はれざる中に鈴に剋数の別あった」例[24]を引用して否定している[25]。
ただし鈴尅の形態や刻まれた部位は不明であり[16]、隠岐国駅鈴以外に駅鈴の実例がない現状では真偽について明確な判断は不可能であるとされる[26]。なお文化庁による国指定文化財等データベースでは「中世」の資料とされている[27]。