日野資枝
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日野資時の養子となり跡を継ぐ。後桜町天皇に子・資矩と共に和歌をもって仕えた。
優れた歌人であり、同族の藤原貞幹や番頭・土肥経平や塙保己一らに和歌を伝授した。『和歌秘説』を著している。また、画才にも優れており、第一の文化人として著名である。『日野資枝百首』なる日野資枝の詠んだ和歌100選の本がある。本居宣長に金銭援助もしたことがある。
なお、徳富蘇峰の『近世日本国民史』(宝暦明和篇)では、宝暦事件において、桃園天皇の近習でありながら、天皇や竹内式部らの動向を摂関家に密告した人物として挙げられている[1]。
武家伝奏を務めた廣橋兼胤の日記『八槐御記』によれば、明和4年(1767年)12月19日、資枝は天皇の近習小番ならびに賀茂伝奏を解任された。その際、5歳の次男賀丸(北小路祥光)の叙爵を申請中であったが、父の処罰の影響のためか却下されている[2]。