「大正デモクラシーの理論的旗手」と称される。
1917年、鳴海の小作人は、長雨を原因とする凶作を理由に小作料の引き下げを要求し、鳴海小作争議が勃発する。雉本家にかつて出入りしていた小作人が、大学教授で高い法律知識をもつ雉本に争議への協力を願い出た。1920年に仲裁に入った雉本に対し、地主側がまったく応じようとしなかったため、雉本は農民の側に立って裁判の参加に踏み切る。この時、立命館大学付属法律研究所も支援。争議は長引き、1922年には帝国議会でも問題となり、小作争議を支援した雉本は非難された(雉本の死の翌年に和解が成立し、小作料が引き下げられた)。