雑賀氏

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雑賀氏(さいかし[1][注釈 1]、さいがし[1][3])は、日本氏族の一つ。

紀伊国雑賀荘の氏族[4]本姓源氏で、源義兼を祖とする[5][注釈 2]。義兼の子・太郎尚兼の時に雑賀の地頭に任じられ、以後雑賀を名乗ったという[5]

吾妻鑑』には雑賀次郎や雑賀太郎の名があり、いずれも紀州雑賀の出身とみられる[6]。雑賀次郎は長尾定景の郎従で、承久元年(1219年)、将軍源実朝を刺した公暁の追捕に当たり、公暁を組み止めている[5]。雑賀太郎尚持は建長6年(1254年)、鎌倉幕府引付衆(引付奉行人[7])に任じられた[5]。雑賀氏の系図では、太郎尚持は初代・尚兼の子とされている[8]

太平記』にも雑賀氏は登場しており、元弘元年(1331年)、雑賀隼人佐が京都で僧の円観らを捕らえ、正平3年(1348年)、雑賀次郎が高師直に属して四條畷の合戦で戦死している[8]

また『文安年中御番帳』に「奉公衆・雑賀」の記載があり、室町幕府幕臣としての雑賀氏が確認できる[3]

弘治3年(1557年)、和佐荘と岩橋荘の争いの仲介を行った「惣国」の代表者の1人として雑賀助大夫の名がある[9][10]雑賀衆の活躍する時代に雑賀氏の名はほとんど見られず、確かな史料で確認できるのはこれが最後となる[8]

後年「雑賀孫市」と呼ばれた[11]鈴木重秀について、当初平井姓を名乗っていたが雑賀氏からその名字を譲り受け、元の雑賀氏は慈幸氏に改めたとする文献があるが、重秀が雑賀氏を名乗った事実は確認できない[12]

水戸藩士雑賀氏

紀州雑賀の出身とみられる[13]鈴木孫三郎重朝の子孫が、雑賀氏を名乗っている[14]。本姓は穂積氏[15]

重朝は初め豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いで西軍に与して浪人した後、水戸徳川家に3,000石で仕えた[16]。重朝の跡を継いだ重次は当初鈴木孫三郎を名乗ったが、後に雑賀孫市へと改めた[17][18][注釈 3]。重次の跡は藩主・徳川頼房の子の重義が養子となって継ぎ、以後代々、雑賀孫市または孫一郎を名乗り、明治まで続いた[20]

なお『新補水城実録』や『水府系纂』には家督を継承した1人だけが雑賀を称すると記されており[21]、重次の弟(または兄)の重信の子孫は鈴木氏を名乗っている[22]

また、会津藩には重次の子・雑賀孫市重兵(しげたけ)の子孫と伝える一瀬氏がおり[23]江戸時代末期には一瀬大蔵が藩命により江川坦庵の門下で西洋流砲術を学んでいる[24][25]戊辰戦争時には一瀬紀一郎が雑賀孫六郎(雑賀重村)に改名しており[26]明治維新後、開拓使に入っている[27]

毛利家臣雑賀氏

本姓は藤原氏で、本家を紀州住としている[28]

貞治年間(13621368年)に将軍・足利義詮に属して紀州から関東に移った雑賀教行の末裔で、教行から3代後の常澄の時に大内氏に従い、備中国窪屋郡に移った[28]。常澄の子・範治の時に周防国吉敷郡へと移り、範治の子・隆知の時、毛利元就に仕えた[28]

隆知の跡は子の隆利が継ぎ、その跡を元相が継いで300石を与えられている[28]

越中雑賀氏

越中国礪波郡の豪族で、「斎下」とも書かれる[3]

越後上杉景勝と結んだ河上一向宗徒の首領の1人に雑賀安芸守がおり、天正年間(15731592年)、佐久間盛政と戦い、討死したという[29]。安芸守の子・大窪加兵衛は前田備前守に仕え、加兵衛の子・雑賀茂左衛門は前田利常に仕えた[29]

礪波郡の遊部・河井田を拠点とした雑賀安芸守の他、加賀国河北郡の高峠砦に越中川上の雑賀日向守がいたと伝わる[3]

その他

脚注

参考文献

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