難太平記
From Wikipedia, the free encyclopedia
今川氏の歴史と足利氏の歴史などが主要な内容で、子孫に宛てて書かれている。書名の由来は、この書物の前半部分が『太平記』が今川氏を軽んじていると難じている(非難している)ことにある。しかしながら書名は後世につけられたと考えられており、著述時点では名称はなかったと考えられる。よって実際は『太平記』そのものを批判することよりも、今川氏の歴史と宗家である足利将軍家に対する忠誠の歴史を論じることが主体となっている[1][2]。
執筆の背景は今川氏の忠誠が世間に確認されれば名誉に関わるばかりでなく、一門の繁栄も保証されることになるため、武功顕彰の立場から『太平記』に筆を及ぼしたという理由があった[3][4]。また、家の歴史を持たない者は「氏なき民」に等しいと考えていた了俊は、自らの失脚で子孫がそうなることを恐れ、家の歴史を大切にしなければならないとの危機感も理由に挙げられる。ただし今川氏は鎌倉時代では足利氏の庶流に過ぎず、南北朝時代に台頭した新興勢力であり、父今川範国より前の歴史を知らないと書く了俊はしばしば『難太平記』で自家の歴史が浅いことを嘆いている。一方で山名氏・一色氏の歴史も記しており、山名時氏が民百姓の暮らしをしていたと語ったとされる文や、元は山伏とされる一色氏の記述からは、彼等も今川氏と同じく歴史が浅い新興勢力であることが窺える[* 1][7]。
この書物は政道批判の書としての一面があり、自分を九州探題解任に追い込んだ斯波義将・渋川満頼、恩を仇で返した甥の今川泰範への憎悪、彼等の振る舞いを許した室町幕府3代将軍足利義満への不満が込められている。加えて、応永の乱における鎌倉公方足利満兼の挙兵を正当化しつつ、自らが関与した疑惑の否定も書いている[* 2][12][13]。しかし国文学者小川剛生の研究によると、失意の了俊は大内義弘の要請に応じ、足利満兼と義弘の仲介を務めたとされ、相模藤沢(現在の神奈川県藤沢市)に移住し満兼の援助を受けていたこと、彼と義弘を仲介したことを明らかにしている。『難太平記』で了俊は潔白を主張して義弘に責任転嫁しているが、小川の説を取り上げた歴史学者平瀬直樹は仲介の事実を隠すための自己弁護と見ている[* 3][16][17]。
後半は、了俊が実地に経験した南北朝時代の後半から室町時代の初期の出来事が記されている。
- 内容は下記のとおり。
- 書物を著述するにあたっての著述の理由
- 足利氏の歴史について
- 今川氏の歴史について
- 今川荘の歴史とその寄進について
- 足利尊氏・足利直義兄弟の生誕について
- 足利尊氏の上洛と上杉憲房について
- 太平記の成立過程のその誤謬について
- 九州落ちについて
- 篠村八幡宮旗揚げについて
- 八々王の太刀について
- 清き武者の心への直義の不審について
- 中先代の乱での今川一族の活躍について
- 北畠顕家との合戦での今川範国の活躍について
- 今川家の軍旗「赤鳥」の由来ついて
- 今川家の家督、領国についての嘆き
- 細川清氏について(今川範国の忠義)
- 細川清氏について(今川範国の深慮)
- 応永の乱と足利義満への憤懣(反省のない義満の祈祷を批判)
- 応永の乱と足利義満への批判(忠功を省みない義満への批判)
- 大内義弘入道について
- 名乗りについて
- 恥ずべきことについて