難波三十四
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岡山県出身。1923年(大正12年)7月、陸軍士官学校(第35期)を卒業し、同年10月25日に陸軍砲兵少尉に任官[1]。
1932年(昭和7年)11月、陸軍大学校(第44期)を卒業[1]。その後、参謀畑を歩み、1939年(昭和14年)12月には参謀本部防衛課長代理を務めた[1]。
太平洋戦争開戦後は防空業務に深く関与し、1942年(昭和17年)頃には防衛総司令部参謀(陸軍中佐)として防空関連書籍を著した[2]。同書は一般向け防空知識の普及を目的としつつ、兵器性能や陣地配置などの詳細な記述を含む点が特徴である。
1943年(昭和18年)8月2日、陸軍大佐に進級[1]。1944年(昭和19年)8月8日、千葉陸軍高射学校教官に補された[1]。
二・二六事件
1979年に放送されたNHK特集「戒厳指令・・・「交信ヲ傍受セヨ」 二・二六事件秘録」にて、自身が電話の盗聴録音を命じたと証言している[3]。
当時、参謀本部第1部第3課の部員であった難波(階級は砲兵大尉)が「そろそろ薄明るくなってきた頃でしたが、どこから来たんじゃろう思うんですが、参謀本部第一部第二課、作戦をやる課ですな。そこの課長の石原莞爾大佐がひとりでふらふらとやってきました。そして日直の部屋から参謀次長の杉山元さんに電話をかけ、〝閣下、すぐに戒厳令を布かれるといいと思います〟とそれだけいうと、そのあたりを一巡して、また飄然としてどこかに行ってしまわれましたな。平然としたものでした。私たちには、まったく寝耳に水の出来事で何もわからなかったんですが、石原さんには誰かが知らせたんでしょうなあ」と証言している[4]。