難波作之進
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代議士当選まで
慶応元年(1865年)、周防国において難波市蔵の長男[3]として生まれる。戦国武将の清水宗治を支えて備中高松城の戦いにおいて共に自刃した弟で家老の難波宗忠の末裔であり、難波家の第13代当主[4]である。地元では有名な名家であった。
幼いころから尊王思想を強く受け、子供たちにも厳しく教えてきたという。周防村の村長、県会議員などを経て、防長農工銀行取締役となる[2]。1920年、第14回衆議院議員総選挙に山口8区から出馬し、立憲政友会の加納庫三らを破って衆議院議員に当選[5]。庚申倶楽部に所属する。
このころから、四男・大助の共産主義思想への傾倒が激しくなり、度々激しい論争をするようになる。
虎ノ門事件
1923年12月27日、大助が虎ノ門において皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)を狙撃するという事件を起こす(虎ノ門事件)。銃弾は外れ、皇太子は難を逃れるが、作之進は即日衆議院議員の辞表を提出し、同月28日に辞職が許可された[6]。地元へ帰り蟄居した。周防村の村民は、難波家を見れば目が汚れる、と周りに高い土手を築いたといわれる[要出典]。また、難波家は大橋家に送られた毛利輝元から拝領したとされる刀と感状などの文化財を多数所蔵していた。難波家に送られたもの以外で持ち主の分かるものについては全て返還している(この時津山立石家との間で交わされた1925年4月8日付の葉書が残っている)。
大助は1924年11月15日に死刑を執行された。作之進は遺体の引き取りを拒み、自邸の門に青竹を打ちすべての戸を針金でくくって、三畳間に閉じこもり食を断った。その後、約半年後に餓死した[7]。61歳没。選挙の地盤はのちに松岡洋右が引き継いだ。

