難波日香蚊
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記録
『日本書紀』巻十三によると、推定454年、大草香皇子(おおくさか の みこ)は根使主(ねのおみ)の讒言(ざんげん)を信じた安康天皇により殺されてしまった。この時に、皇子に仕えていた日香蚊とその2人の子供たちは、皇子が無実の罪で殺されたことを悲しんで、日香蚊は皇子の首を抱き、二人の子供たちは皇子の足をとらえて、以下のように唱えたという。
| 「 | 「吾(わ)が君、罪旡(な)くして死(し)にたまふこと、悲(かな)しきかな。我(やつがれ)父子(かぞこ)三人(みたり)、生(い)きてまししときには事(つか)へまつり、死(し)にますときに殉(したが)ひまつらはずは、是(これ)臣(やつこ)だにもあらず」 | 」 |
そう言って、自刎して、皇子の屍のかたわらで死んでいった。軍兵たちはみなこれを見て悲しみのなみだを流した、という[1]。
『書紀』巻第十四によると、推定470年、前の月に呉織・漢織および衣縫の兄媛・弟媛らを連れて来日した呉(くれ、中国の南朝、現在の華南)の使節を接待していた雄略天皇は、根使主を呉人らの共食者(あげたげびと)に選んでいた。しかし、このことがきっかけで根使主の十数年前の「嘘」が露顕してしまい、根使主は攻め滅ぼされた。そして天皇は日香蚊の子孫を捜し回り、姓を与えて、大草香皇子の名にちなみ、「大草香部吉士」と名乗らせた、という[2]。
『書紀』巻第二十九によると、子孫の草香部吉士大形は681年(天武天皇10年正月)に「難波連」の氏姓を授けられた。683年には草香部吉士氏全体も、「連」の姓を与えられた[3]。「八色の姓」制定により、685年、難波連氏は、「忌寸」の姓を授与されている[4]。
