雲居希膺
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天正10年(1582年)、土佐一条家家臣であった小浜左京の息子として伊予国上三谷で誕生した[1]。当時、土佐一条家は長曾我部元親によって滅ぼされたため、土佐ではなく伊予で誕生した[1]。中村大平寺にて9歳で出家する[1]。16歳の時に正式に得度し、師の賢谷宗良に従って上洛した。その後、東福寺、大徳寺と居を移す。慶長11年(1606年)、愚堂東寔や大愚宗築らとともに虎哉宗乙や物外招播などの当時の名だたる禅僧の下を遍参した。元和元年(1615年)若狭国小浜高成寺に入寺した[1]。元和2年(1616年)に妙心寺蟠桃院の一宙東黙より嗣法する。塙直之との縁で一時、一宙東黙と共に大坂の陣で秀頼方に味方し、佐蔵主と名を変えて籠城した。その後、若狭国小浜、摂津国勝尾山に隠遁する。元和4年(1618年)、加藤嘉明の帰依を受け、宝樹新寺を開創した[1]。元和6年(1620年)、妙心寺前住位(153世)に登った。元和7年(1621年)に妙心寺で開堂の儀を行った。寛永4年(1627年)、嘉明の会津への移封に従い、会津の弘誓院に止住した[1]。しかし、3年後、自らの境涯に満足せず、出奔した。その後、熱海興禅寺に遊び、富士山に登った[1]。さらに寛永9年(1632年)51歳にして越智山で座禅をした際に大悟した。摂津勝尾寺で隠棲していた際、後水尾天皇からの要請を受け、御前進講をした[1]。寛永13年(1636年)に伊達政宗の遺言による伊達忠宗の招請により奥州へ移り、松島の瑞巌寺を再興した。正保元年(1644年)に石馬寺を中興。正保2年(1645年)に妙心寺153世となった。正保4年(1647年)、現松島海岸駅前広場に法性院を開創した[1]。慶安元年(1648年)瑞厳寺を洞水東初に譲った[1]。慶安3年(1650年)には茂庭に祥岩寺(現・大梅寺)、瑞厳寺の東隣に愛姫の菩提道場として陽徳院を開いている[1]。承応3年(1654年)、泉ヶ岳山麓に永安寺を開創した。このように領内だけでも17の寺を、全部で173もの寺を開創・中興した[1]。同年、後光明天皇から「慈光不昧禅師」の特賜を受けた。万治2年(1659年)、祥岩寺にて遷化した[1]。享年78。遺体は蕃山の山巓に葬られ、常寂光と偏した。大悲円満国師と贈諡された。
臨済宗の僧であるが、平易な念仏により民衆を教化したことからその宗風は念仏禅と呼ばれる。
著作に『般若心経大意』がある。法嗣には洞水東初、南明東湖、香山祖桂などがいる。