青木月斗
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大阪市東区(現・大阪市中央区)[1]船場にある神薬快通丸・天眼水本舖の「青木薬房」に生まれる[3]。文学的素地としては、文芸好きな母方の血筋を受け、小学校時代の教師に文学家の斎藤黙蛙、友人に画家の西山翠嶂、赤松麟作、俳人の山中北渚、松村鬼史らがいた。1889年に父が死没し[4]、1894年に道修町へ転居して大阪薬学校(後の大阪薬学専門学校)に入学するも中退[4]。中退後は家業を継いだ[4]。
1897年、國民新聞へ投句を初める[1]。初号は月兎(げっと)[1]。1898年に友人と三日月会を発足。1899年、東京の新聞『日本』に入選して、正岡子規に認められる[1]。同年秋に主幹・発行した俳誌『車百合』は関西俳誌の嚆矢となった。創刊に際し、子規から「俳諧の西の奉行や月の秋」の祝句を贈られた[1]。同年12月に上京、根岸庵の子規を訪い、一泊の上、翌日の蕪村忌に列席している。以降『倦鳥』の松瀬青々と並び、大阪俳壇の草分けとして活躍する。
1900年、妹茂枝が俳人河東碧梧桐と結婚[1]、仲人は松瀬青々。後に三女御矢子が河東家養女に[1]、御矢子の早逝後は三男駿が養子に入籍。1902年『車百合』廃刊後は、『くぢら』や『俳星』など各地の雑誌に寄稿し、巨口会など関西や商用中の九州の句会に出席した。新傾向俳句の無季非定型化には組せず、1915年『ホトトギス』課題選者を務めた。文学・美術各方面の交遊が深く、日野醉來の『不二新聞』(宮武外骨社主)文藝欄を担当したほか、『大阪新報』や各地の新聞の俳句選者も担当しつつ、関西や九州の句会の指導にも当たった。1907年に月斗と改号。1916年より美術と俳句の雑誌『カラタチ』を主幹した。1920年には俳誌『同人』を創刊。以後、終生主宰として、与謝蕪村、正岡子規を現代に継ぐ正統俳句の普及指導に務めた。
1945年に戦火を避けて奈良県大宇陀町に疎開、1949年3月17日、肝硬変のため同地にて死去[5]。享年71。辞世の句「臨終の庭に鶯鳴きにけり」。墓は、京都・一乗寺の金福寺、本人が敬仰した与謝蕪村の墓に辺りして、同人社により建立された。『同人』主宰は菅裸馬が継承。没後も広く追慕され、月斗が没した3月17日は、辞世の句から「鶯忌」とも呼ばれている。
