韋仁寿
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隋の大業末年、蜀郡司法書佐となった。その刑事裁判は公平寛大で、罪を得た者も「韋君の裁きであるなら、死んでも恨みはない」と口にしていた。唐の李淵が関中に入ると、使者を仁寿のもとに派遣して巴蜀を平定するよう命じた。仁寿は巂州都督府長史に任じられた[1][2]。
ときに南寧州が唐に帰順すると、朝廷は使者を派遣して安撫させたが、みな賄賂を受け取って現地の人々に憎まれ、反乱を起こす者も出た。仁寿は李淵にその有能さを買われて、検校南寧州都督となり、南寧州を慰撫した。仁寿は兵500人を率いて西洱河にいたり、8州17県を置いて、現地の有力者を刺史や県令に任じた。その法令は公正であったことから、人々はその統治を歓迎した[1][3]。
仁寿は南寧州から離任するにあたって、少数民族の首長に引き留められ、父老たちに泣いて見送られた。南寧州の子弟たちが仁寿に従って入朝し、地方の物産を貢献して、李淵を喜ばせた。仁寿は再び南寧州に赴任するよう人々に求められ、李淵がこれを許可した。李淵が南寧州に兵を増援するよう益州に命じたが、益州刺史の竇軌は仁寿の功をねたみ、益州の山獠の反乱にかこつけて、兵を送らなかった。1年あまりを経て、仁寿は病没した[4][5]。