韋元甫
From Wikipedia, the free encyclopedia
司農寺卿の韋玢の子として生まれた[1]。若くして礼法を守って身を慎み、学問と品行にさとかった。白馬県尉を初任とし、統治の手法で名を知られた。河南採訪使の韋陟に器量を重んじられ、支使をつとめ、同幕判官の員錫と名声を等しくした。元甫は簡牘に詳しく、員錫は考究に詳しかったことから、当時の人は「員推韋状」と併称した[2]。元甫は入朝して監察御史・殿中侍御史・司勲郎中・司庫郎中を歴任した。洪州刺史・江西観察使として出向した。入朝して太府寺少卿に任じられ、大理寺少卿に転じた。宝応元年(762年)、潤州刺史として出向した。入朝して太子左庶子となり、御史中丞に累進した。蘇州刺史・浙江西道都団練観察等使に転じた。大暦3年(768年)[3]、宰相の杜鴻漸に推薦され、長安に召還されて尚書右丞となった。淮南節度使が欠員となると、また杜鴻漸に推薦されて、揚州長史に任じられ、御史大夫を兼ね、淮南節度観察等使をつとめた[2]。彭城郡開国公に封じられた。大暦6年7月乙酉(771年8月15日)、在官のまま病没した。享年は62。戸部尚書の位を追贈された。