韋済
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韋嗣立の三男として生まれた[1]。若くして文章で知られた[4]。明経に挙げられ、太常寺奉礼郎に任じられた。鄠県県尉に転じた[1]。開元初年、鄄城県令に任じられた。のちに醴泉県令に抜擢され、簡素な統治で知られた[4]。開元7年(719年)[5]、父が死去すると、辞職して喪に服した。喪が明けると、太子司議郎に任じられた。屯田員外郎・兵部員外郎・庫部郎中を歴任した。のちに棣州刺史に任じられた。赴任しないうちに母が死去したため、官を辞職して喪に服した。喪が明けると、幽州大都督府司馬となり、恒州刺史に転じた。入朝して京兆少尹となった[1]。開元24年(736年)、戸部侍郎となった。年を重ねて太原尹に転じた。「先徳詩」4章を作って、祖父や父の行いを叙述した[4]。天宝7載(748年)、河南尹となり、水陸運使を兼ねた。天宝9載(750年)、尚書左丞に転じ、正議大夫の位を加えられ、奉明県開国子に封じられた。天宝12載(753年)、馮翊郡太守として出向した。ほどなく儀王傅に転じた。天宝13載(754年)10月11日、長安興化里の邸で死去した。享年は67[1]。