韋煥章
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1909年(宣統元年)、遼陽師範学校を卒業。以後、遼陽第一民立小学校長、奉天省教育庁第一科科長、同庁代理庁長を歴任した[1][2][4]。
1931年(民国20年)の満州事変(九・一八事変)後から、満州国建国工作に参加し、奉天教育事務籌備処処長に任ぜられた。翌年に満州国が正式に成立した後に、奉天省教育庁庁長に就任している[1][2][4]。1937年(康徳4年)7月1日、哈爾浜特別市市長に任命される[6]。翌1938年(康徳5年)2月10日、浜江省省長となり[7]、同年7月、修好経済使節団団長として「防共諸邦」を歴訪した[2]。
1940年(康徳7年)5月16日、韋煥章は外務局長官に任ぜられる[8]。1942年(康徳9年)4月20日、外務局が外交部に戻り、韋はそのまま大臣に留任したものの[9]、わずか5か月後の9月28日に大規模な大臣の入れ替えで辞任、参議府参議に転じた[10]。1944年(康徳11年)1月17日に恩賞局が新設されると韋が総裁を兼任することになる[11]。1945年(康徳12年)3月、奉天省省長に任命された[12]。
満州国が滅亡した直後、韋煥章は張景恵に、蔣介石と連合して自立すべき旨を進言した[4]。しかし、まもなく2人ともソ連軍に逮捕され、シベリアで収監された。1950年、他の満州国要人たちと共に中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監される。没年は不明だが、そのまま収監中に病没した[3]。