韓人池については、『日本書紀』巻第十の応神天皇7年9月に、
高麗人
(こまびと)・百済人
(くだらびと)・任那人
(みまなびと)・新羅人
(しらきひと)、並(ならび)に来朝(まうけ)り。時に
武内宿禰(たけしうちのすくね)に命
(みことのり)して、諸
(もろもろ)の韓人
(からひと)等を領(ひき)ゐて池を作らしむ。因りて池を名
(なづ)けて韓人池
(からひとのいけ)と号(い)ふ
[2]
と記述されている。また、『古事記』には、
亦新羅人
(しらきひと)参渡(まいわた)り来ぬ。是
(ここ)を以ちて
建内宿禰命(たけしうちのすくね の みこと)引き率
(ゐ)て、渡
(わたり)の堤池
(つつみいけ)と為
(し)て、百済池
(くだらのいけ)を作りき
[3]
という記述がある。百済池は現在の奈良県北葛城郡広陵町百済の地にあったとされ、韓人池とは別物であるが、これらの記述から、水田の開墾や用水設備の建設を進める上で大陸の灌漑技術をヤマト王権が採用していった事情がうかがわれる。すなわち、5世紀代に巨大な前方後円墳を築造したように、有力な渡来人を傘下に収めたヤマト王権が大規模な土木工事を実施したことが判明している。