韓国軍慰安婦
第二次世界大戦後の朝鮮において韓国軍と在韓米軍や国連軍を相手にした慰安婦
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名称の変遷

韓国陸軍本部が1956年に編纂した公文書『後方戦史(人事編)』には「固定式慰安所-特殊慰安隊」とあり、朝鮮戦争中は「特殊慰安隊」[2][3][4][5][6]、または「第5種補給品」とも呼ばれた[注釈 1]。
ほかに「挺身隊(정신대)」[10]や国軍挺身隊とも呼ばれた。 アメリカ軍や韓国軍などを相手とした女性達への当時の韓国政府や韓国報道機関による公式呼称は「慰安婦」である[11][9]。
1980年代まで韓国では、「慰安婦(위안부)」という言葉は、主に米軍・国連軍慰安婦の事を指し、日本軍慰安婦はほとんど問題にはなっていなかった。しかし1990年代に日韓問題が大きくなってからは、「慰安婦」という言葉は日本軍慰安婦に対して使われるようになり、一方で米軍・国連軍慰安婦に対しては使われなくなった[12]。
1966年の大韓民国大法院の判決文によれば、慰安婦とは「一般的に日常用語において、売春行為をしている女性を指すもの」としている[13]。
これらの英語表記はcomfort womanであり、日本語の慰安婦の英訳と同一である。英語では韓国軍慰安婦は一般にKorean Military Comfort Womenと表記される[1]。
連合軍軍政期の朝鮮における慰安婦
朝鮮戦争と特殊慰安隊
1948年8月15日にはアメリカ合衆国の支援を受けて大韓民国が建国された。同年9月9日には朝鮮民主主義人民共和国が独立する。しかし、1950年より南北朝鮮の間で朝鮮戦争が勃発、1953年7月27日に休戦する。
朝鮮戦争中に韓国軍は慰安婦を募集した。韓国政府は、韓国軍・米軍向けの慰安婦を「特殊慰安隊」と呼び、設立した[3][18]。
大韓民国政府は、韓国軍と国連軍のための慰安所を運営した[19]。韓国軍は直接慰安所を経営することもあり、韓国陸軍本部は特殊慰安隊実績統計表を作成していた[3][4]。部隊長の裁量で周辺の私娼窟から女性を調達し、兵士達に補給した[9]。韓国軍によりトラックで最前線まで補給された女性達は、夜になると開店しアメリカ兵も利用した[9]。
朝鮮戦争以降1990年代まで在韓米軍の韓国駐留時[20]に韓国軍によって強行され、韓国軍と在韓米軍の性的欲求を解消する目的で強制的に集団的性行為を強要された事例もある。
韓国陸軍本部は韓国での慰安所の設置理由を以下のように説明している[3]。
士気昂揚はもちろん、戦争という事実に伴う避けることの出来ない弊害を未然に防ぐことができるだけでなく、長時間にわたる報われない戦闘によって後方との行き来が絶えているため、この性に対する思いから起こる生理作用による性格の変化などによって鬱病、その他の支障を招くことを予防するために、本特殊慰安隊を設置させた。
陸軍本部軍事監室「後方戦史(人事編)」1956年、148頁[21]
特殊慰安隊
韓国軍が1951年-1954年まで「特殊慰安隊」という名前で、固定式あるいは移動式慰安婦制度を取り入れて運用したことは韓国陸軍本部が1956年に編纂した公式記録である『後方戦史』(후방전사)の人事編と目撃者たちの証言によって裏付けられた[22]。
韓国軍は慰安婦を「特殊慰安隊」と名付け、慰安所を設置し、組織的体系的に慰安婦制度をつくった[7][23]。金貴玉によれば、韓国軍慰安婦の類型には、軍人の拉致、強制結婚、性的奴隷型、昼は下女として働き、夜には慰安を強要されたり、また慰安婦が軍部隊へ出張する事例もあった[7]。また、正規の「慰安隊」とは別に部隊長裁量で慰安婦を抱えた部隊もあった[9]。日本人慰安婦も在日米軍基地周辺や朝鮮半島へ連れて行かれたこともあった[24][25]。
特殊慰安隊の設置理由は、兵士の士気高揚、性犯罪予防であり、これは日本軍慰安婦と同様のものであった[7](韓国政府や軍が正式に募集・設置運営している点は日本と異なる)。計画は陸軍本部恤兵監室が行い[7]、1950年7月には韓国政府は軍作戦指揮権を米軍を中心とした国連軍に譲渡しており、最終的な承認は連合軍が行ったとされる[7]。韓国政府・軍は慰安婦に対して「あなたたちはドルを得る愛国者」として「称賛」したという[26]。
尉官将校だった金喜午の証言によると、陸軍内部の文書では慰安婦は「第5種補給品」(軍補給品は4種までだった)と称されていた[7]。
慰安婦をドラム缶にひとりづつ押し込めて、トラックで前線まで移送したという証言もある。ただし証言者は、慰安婦を前線まで連れて行くことは、本来は許可されていなかったとも語っている[23]。
設置時期と場所
韓国政府は、韓国軍だけではなく国連軍のための慰安所も運営した。
- 釜山・馬山
朝鮮戦争が始まってほどない1950年9月、釜山に韓国軍慰安所が、馬山市に連合軍慰安所が設置され[5]、釜山日報の報道によれば、馬山の国連軍用慰安所は5か所あった[28])。
1951年には釜山慰安所74か所と国連軍専用ダンスホール5か所が設置される[5]。
- 江陵・春川など
江陵市には、第一小隊用慰安所(江寮郡成徳面老巌里)が、他に春川市、原州市、束草市などに慰安所が設置された[7]。
- ソウル
- 第一小隊用慰安所(現・ソウル市中区忠武路四街148)
- 第二小隊用慰安所(現・ソウル特別市中区草洞105)
- 第三小隊用慰安所(現・ソウル特別市城東区神堂洞236)
朝鮮戦争時の慰安婦の数
総数は不明。金貴玉教授は朝鮮戦争直前の私娼の数5万人を下ることはないと見ている。なお、朝鮮戦争後には性売買をする女性は30万人余りに達したと推測されている[22]。
韓国陸軍本部が1956年に編纂した公文書『後方戦史(人事編)』によると韓国軍慰安婦は1952年における4小隊に限ったケースだけでも89人の慰安婦が204,560回の行為を行わされた[3][4]。
強制連行

韓国軍慰安婦のケースでは韓国政府やアメリカ政府による強制があったとされている[26]。
朝鮮戦争中に韓国軍に逮捕された北朝鮮人女性は強制的に慰安婦にされることもあった[6]。
朝鮮戦争休戦後
ベトナム戦争時
韓国の性政策
ベトナム戦争に参戦するにあたり韓国政府は朝鮮戦争時と同様な「慰安隊」設置を計画したが、米軍の反対に遭い実現はしなかった(駐越韓国軍司令官)[29]。
当時の駐南ベトナム大使であった申相澈は、「そのような施設を軍が運営することは絶対に認められない」と反対したとされる。また、蔡命新司令官も「ベトナムには休暇中の将兵を対象に営業する民間施設が多数存在しており、軍がそのような施設を運営すべきではない」として反対したという[30]。
トルコ風呂
2015年、ベトナム戦争期にサイゴンで韓国軍兵士向けの施設が運営されていたとする米公文書が報じられた。同文書では、この施設が韓国軍関係者の管理下にあり、ベトナム人女性による売春が行われていたと米軍が認識していたことが記されている。また、この文書は韓国軍幹部による不正取引疑惑の調査資料の一部として紹介され、週刊文春が報じたことで広く知られるようになった[31]。
山口敬之の週刊文春の記事(「韓国軍にベトナム人慰安婦がいた!」)を巡り、後追い取材を行った週刊新潮と週刊文春の間で論争が展開された。新潮は、有馬哲夫の、韓国軍専用というのは経営者の言い分であり、米軍の調査では(ベトナム国籍者を除く)一般向けの売春施設だと結論づけられているという指摘や、発見された文章にmilitary brothelsやmilitary prostitutesという言葉が出て来ず、山口が福利センターを慰安所、売春婦を慰安婦と言い換えたというコメントを引用して記事を批判した。有馬は、軍医や憲兵の存在など韓国軍が運営管理していた実態がなく、慰安所とは言えないとした[32]。
それに対し文春は、秦郁彦にコメントを取り、反論した。秦は、ベトナム戦争では、(米軍の)慰安所を指してレクリエーションセンターやディズニーランドといった隠語が使われており、日本軍の慰安所でも憲兵や軍医が常駐していたわけではなく、〝トルコ風呂〟を韓国軍の慰安所と呼ぶことは妥当だと述べている。また、ベトナムの中心にありながらベトナム国籍者が利用出来ないというなら、一般向けに解放されていなかったということだという意見も紹介されている。山口の記事にも、韓国軍以外に米軍も利用したと書かれていた[33]。
金堂は、韓国軍が将兵向けの専用トルコ風呂を運営していたとする報道について、『週刊文春』の記事は歴史資料を恣意的に組み合わせた歪曲報道であると結論付けた。また、日韓間で外交的に敏感な歴史問題に関する日本メディアの報道を事実として扱い、十分な検証を行わずに引用した『ハンギョレ』東京特派員の記事についても誤報であると指摘した。さらに、具体的な実名を挙げて誤報であると批判したものの、言及されたメディアから異議申し立てはなかったとしている[30]。
韓国軍・米軍慰安婦問題
韓国では、日本軍慰安婦問題について1980年代から1990年代にかけて社会問題、さらに日韓の外交問題ともなっていた。他方、1990年代後半になると、大韓民国国軍あるいは米軍にレイプされた韓国軍慰安婦の存在について韓国内で公論化され始めるようになった。
1997年にはアメリカでヤン・ヒュナ(Yang Hyunah)が韓国軍慰安婦の研究論文「Revisiting the Isuues of Korean Military Comfort Women」を発表し[34]、同年、ヒュン・S・キム(Hyun S.Kim)とJT・タカギとヘ・ジュン・パク(Hye-Jung Park)は「The Woman Outside:Korean Women and the U.S.Militaly 」を発表した。
研究と資料閲覧禁止
韓国軍慰安婦については1996年に韓国慶南大学の金貴玉教授が、大韓民国陸軍本部軍事監室『後方戦史(人事篇)』(1956年刊)の調査で、朝鮮戦争時に大韓民国陸軍が慰安婦を徴集していたことや、同書には当時の記録や統計がおさめられていることを明らかにした[3][4]。
金喜午(김희오)大将は韓国軍慰安婦について明らかにされたくはない恥ずかしい軍部の恥部であるが事実であると語った[6]。しかし、韓国の学会や運動団体からは韓国軍慰安婦は公娼であるし、また「身内の恥をさらすもの」「日本の極右の弁明の材料となりうる」と警告し、韓国国防部所属資料室の慰安婦資料の閲覧は禁止された[7]。
2000年代
2002年2月、金貴玉と姜貞淑などにより韓国軍慰安婦の存在が公開され、朝日新聞2002年2月24日の報道では、金らは1948年の韓国政府の公娼廃止令に背いて、約3年間不法に公娼を設置・運営していたと発表した[注釈 2]。
日本軍慰安所との関連
朝鮮戦争当時、この制度を初めて経験した金熙午将軍は、慰安隊を目にした瞬間、「これは過去に日本軍内で従軍経験を持つ一部の将校たちが、部隊の士気向上のための発想として導入したものだろう」と直感したという。したがって金将軍は、34年間の軍務の中で初めて目にした公的な軍慰安所の運営事例について、その是非とは別に、長く拭い去れない後味の悪さとして記憶に刻まれていると述懐している[36]。
金貴玉は当時設置を行った陸軍関係者がかつて日本軍として従軍していたことなどから、「韓国軍慰安所制度は日本軍慰安所制度の延長」と主張している[7]。
また、金貴玉博士は、「朝鮮戦争における軍慰安婦問題は、日本軍慰安婦制度の不幸な子供のようなものだ」と述べ、「この問題も(日本軍慰安婦問題と同様に)被害女性、社会団体、そして学界が連帯して解決すべき、我々の過去清算課題の一つである」と強調した[36]。
韓国系アメリカ人の研究者でサンフランシスコ州立大学教授のサラ・ソー (C. Sarah Soh) は2009年の著書で、慰安婦を「性奴隷」や戦争犯罪とむすびつけて描写するのは不正確であるとしたうえで、韓国政府と韓国議会が日本軍慰安婦問題を扇情的に扱い、異論を許さないまま「日帝による被害の物語」を作って国民を誘導したと批判している[37]。ソー教授は「慰安婦が強制連行された物語」は陳腐な教義[38]であり、韓国政府のこの政治誘導的な誇張が慰安婦問題の真の理解とその解決を妨たげていると指摘した。さらに韓国社会が被害者意識から脱却するべきこと、また韓国自体も元慰安婦にトラウマを与えた共犯者であり、慰安婦制度それ自体は戦争犯罪ではなかったことを受け入れるべきだとした[37]。
李栄薫ソウル大教授は2004年に、「韓国戦争当時、韓国人による慰安所や米軍部隊近くのテキサス村に対する韓国人の反省と省察がない」と日本軍従軍慰安婦を米軍部隊の売春業になぞらえたことで、韓国で批判を浴びた[39]。
韓国の報道では、韓国軍において類似した性格の制度または事例が存在したとする主張が取り上げられている[6]。
現代の妓生、キーセン
川村湊は「李朝以前の妓生と、近代以降のキーセンとは違うという言い方がなされる。江戸期の吉原遊郭と、現代の吉原のソープランド街が違うように。しかし、その政治的、社会的、制度的な支配−従属の構造は、本質的には同一である」とのべ[40]、現代のソウルの弥亜里88番地のミアリテキサスや清凉里 588といった私娼窟にも「性を抑圧しながら、それを文化という名前で洗練させていった妓生文化の根本にあるものはここにもある」と述べている[41]。
2012年9月にはソウル鍾岩警察署長として風俗街「ミアリテキサス」の取締りを行ったこともある漢南大学警察行政学科教授の金康子はテレビ朝鮮の番組[注釈 3]で韓国では生計のために売春業を行う女性たちへの支援制度もなく、また警察力の限界もあるとして限定的な公娼制度を導入すべきと主張した[42]。