韓惲
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韓惲の代に太原府に仕え、兄弟たちは軍職についたが、ひとり韓惲は儒士に親しみ、歌詩を作るのを好んで、書数千巻を蒐集した。乾寧年間、韓惲の妹の韓氏が李存勗の妻に迎えられると、韓惲の家は李存勗に礼遇された。韓惲は文学の才能により交城県令・文水県令を歴任し、入朝して太原少尹となった。晋王李存勗が魏博を平定すると、韓惲は魏博観察支使となった[1]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が即位すると、韓惲は右散騎常侍に任じられた。荘宗に従って洛陽に入り、戸部侍郎となった。天成元年(926年)、秘書監に転じた。まもなく馮道が丞相となると、韓惲は馮道と同じ幕下にいた旧交があったことから、引き立てられてその側近となった。ほどなく礼部尚書に任じられた。母が死去すると、韓惲は辞職して喪に服した。喪が明けると、韓惲は戸部尚書として再起した。長興4年(933年)、明宗が死去し、馮道が山陵使となると、韓惲は副使をつとめた。清泰元年(934年)、検校尚書右僕射・絳州刺史として出向した。清泰2年(935年)、入朝して太子賓客となった[1]。
後晋の天福2年(937年)、韓惲は貝州刺史に任じられた[2]。范延光が興唐府で反乱を起こしていたため、韓惲はこれを恐れてぐずぐずし、赴任しようとしなかった。高祖石敬瑭は不快に思い、韓惲は再び太子賓客となった[1]。天福5年(940年)、兵部尚書に転じた[3]。天福7年(942年)夏、石敬瑭に従って広晋府に赴き、脚気を病んで、龍興寺で死去した。享年は六十数歳[1]。