須田一政
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| 須田一政 | |
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| 本名 | 須田 一政(すだ かずまさ)[1] |
| 国籍 |
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| 出身地 |
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| 生年月日 | 1940年4月24日 |
| 没年月日 |
2019年3月7日(78歳没) |
| 最終学歴 | 東洋大学法学部中退 |
| 出身 | 東京綜合写真専門学校 |
| 公式サイト | http://sudaissei.com/official/ |
須田 一政(すだ いっせい、1940年(昭和15年)4月24日[2] - 2019年(平成31年)3月7日)は、日本の写真家。日常に潜む闇や妖しさなどと形容される、独自のスタイルによるスナップ写真を得意とした[3][4][5]。また、大阪芸術大学写真学科の教授を務めるなど、後進の育成にも励んだ。
1940年、東京市神田区に生まれる[4]。若い頃にはウィリアム・クライン、リチャード・アヴェドン、アーヴィング・ペンの写真集を洋書店で眺め、特にペンの作品を好んだという[3]。1959年(昭和34年)に東洋大学法学部へ入学し、同大在学中より東京綜合写真専門学校の一期生らによるプロ・アマ写真家によって形成された「ぞんねぐるっぺ」に入会、写真の虜となった[3][4]。1961年(昭和36年)、東洋大学を退学して東京綜合写真専門学校に入学、本格的な写真技術を学んだ[3][4]。同校卒業後の1963年(昭和38年)、『日本カメラ』誌の月例コンテストで霊場恐山に旅した記録写真を『恐山』と題して発表、同誌の年間最優秀作家賞を受賞した[3][4][6]。これによりアマチュア写真家として高い評価を受けていた須田であったが、家業を継ぐ為に写真家としての活動を休止する[4]。
1967年(昭和42年)、寺山修司主催の劇団『演劇実験室 天井桟敷』が設立されると、寺山の戯曲を好んでいた須田が劇団のスタッフ募集広告を見て応募し、専属カメラマンとして採用される。これにより写真活動を再開することとなった[3][4][7]。ここでは「一つのものに盲目的に向かうときの熱気を学んだ。」という[3]。1971年(昭和46年)以降はフリーランスの写真家として活動の場を移し、全国各地を旅行して目に留まった様々な風情を写真に収めた[4]。1975年(昭和50年)から2年間に亘り、『カメラ毎日』誌に不定期連載された6×6センチ判でプリントされたシリーズである『風姿花伝』は、1976年(昭和51年)に日本写真協会新人賞を受賞した。この受賞により須田は新進気鋭の写真家として世間に認められるようになった[1][4]。1980年代中頃からは香港や台北といったアジア各地へも足を延ばすようになり、様々な題材を作品として発表した[4]。ナガセフォトサロンで開催した個展「物草拾遺(ものくさしゅうい))」等により、1983年(昭和58年)に日本写真協会年度賞を、ドイフォトプラザ渋谷で開催した個展「日常の断片」等により、1985年(昭和60年)に第1回東川賞国内作家賞をそれぞれ受賞した[4][6]。1996年(平成8年)には自身の写真活動の集成として、写真集『人間の記憶』を刊行する。これにより、翌年に第16回土門拳賞を受賞した[4][6]。2013年(平成25年)にはマネキン人形を題材とした作品も制作している[3]。同年には大規模な回顧展「凪の片(なぎのひら)」が東京都写真美術館で開催された[1][8]。
須田は自主ギャラリーの平永町橋ギャラリーを主宰したり、「須田一政塾」と称するワークショップを行うなど、次世代の写真家の育成にも積極的であった。また、大阪芸術大学教授や『アサヒカメラ』誌の月例写真コンテスト(モノクロ部門)の審査員も務めていた[2][9][10]。晩年は人工透析を受けながらも写真を撮り続けている[5]。2019年3月7日、老衰により千葉市内の病院で死去した。78歳没[1]。
現実と非現実の間に漂う一瞬を捉えたその作品は、1970年代からオーストリアやニューヨークなどでも紹介され、国内のみならず海外での評価も高い[8]。主な作品集に『風姿花伝』(1978)、『わが東京100』(1979)、『紅い花』(2000)、『風姿花伝(完全版)』(2012)、『私家版・無名の男女』(2013)、『Early Works』(2014)、『Childhood Days』(2015)、『Rei』(2015)がある。
