須藤新吉

From Wikipedia, the free encyclopedia

死没 1961年12月21日(1961-12-21)(80歳没)
子供 須藤俊男(長男、鉱物学者)
須藤泰男(次男、心理学者)
須藤 新吉
(すどう しんきち)
人物情報
生誕 (1881-07-04) 1881年7月4日
大日本帝国の旗 大日本帝国
新潟県中蒲原郡能登村
死没 1961年12月21日(1961-12-21)(80歳没)
出身校 東京帝国大学
子供 須藤俊男(長男、鉱物学者)
須藤泰男(次男、心理学者)
学問
研究分野 哲学
論理学
心理学
研究機関 第三高等学校
第一高等学校
テンプレートを表示

須藤 新吉(すどう しんきち、1881年明治14年〉7月4日 - 1961年昭和36年〉12月21日)は、日本哲学者、論理学者、心理学者。第一高等学校名誉教授。

新潟県中蒲原郡能登村(現 新潟市南区能登)出身[1]1901年明治34年)3月に新潟中学校を卒業[注 1]1905年(明治38年)7月に第三高等学校を卒業[注 2]1908年(明治41年)7月に東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修)を卒業[1]

1908年(明治41年)10月から1910年(明治43年)7月まで、浦和中学校に嘱託教師として勤務。1909年(明治42年)9月から1914年大正3年)7月まで、東京帝国大学文科大学大学院で心理学を研究(「リズムノ生理心理的研究」)[1]

1915年(大正4年)に第三高等学校講師を嘱託され、独語を担当、1916年(大正5年)12月から論理学と心理学も担当、1917年(大正6年)2月17日に第三高等学校教授に任官[1]1920年(大正9年)から論理学と心理学のみを担当。

1922年(大正11年)3月25日に第三高等学校を依願退官、第一高等学校講師を嘱託され、独語を担当、1924年(大正13年)9月24日に第一高等学校教授に任官[1][注 3]、10月から論理学も担当。

1930年昭和5年)9月に第一高等学校第一文学科主任教授に就任[注 4]、同月から心理学も担当。

1942年(昭和17年)5月6日に第一高等学校を依願退官、第一高等学校講師を嘱託され、心理学を担当。

1950年(昭和25年)3月24日に第一高等学校が閉校、玉川大学教授に就任[1]哲学と論理学と心理学を担当。

人物

  • 須藤新吉は温厚な先生として学生たちから慕われていた。
  • 第一高等学校で須藤の教え子だった中村元は須藤のことを、温厚で、心温かく、情深く、物腰が丁寧で、学生を叱ったり怒ったりすることが一度もなく、「どこまでも親切であられた」と述べている[3][4]
  • 中村の先輩は「須藤新吉先生という方はなぁ、おめえ、たいへん立派な先生なんじゃぞ! われわれと会っても、先生のほうから挨拶してくださる、丁寧な先生なんじゃ。先生の名前は、ご本や辞典や参考書にまで出ているほど大学者なんじゃ」と述べている[3][5]
  • 中村が、1943年昭和18年)3月31日に30歳で東京帝国大学助教授に任官した時、挨拶をしに須藤を訪問すると、「温かい言葉で包容するようにして、勉強に向かう心を起こさせてくれた」という[5]
  • 中村は須藤から、学問は万人に納得されうるものでなければならないこと、即ち、学問の根本は論理であることを教示され、このことが自分の研究や活動に計り知れないほど強い影響を与えたと述べており、須藤の著書『論理學綱要』の改版が出版される時(1949年〈昭和24年〉)、『論理學綱要』の「因明」の部分の執筆を依頼されたのは「わたくしにとって至上の喜びであった」と述べている[6][7]
  • 中村が、晩年、須藤の『論理学綱要』を西洋の論理学の糸口として、ダルマキールティの『論理学小論』(『ニヤーヤ・ビンドゥ〈正理一滴〉』)を東洋の論理学の糸口として、東西の論理学を比較・考察し、普遍的な論理学の構築を目指して執筆していた時、中村は須藤のことを「今その前方に、高く聳えて手を向けて招いてくださっている」、「わたくしの導き手であり、闇夜の灯明のような方である」と述べている[8][9][10][11][12][13][注 5]

栄典・表彰

主な教え子

親族

著作物

著書

論文

脚注

参考文献

関連文献

Related Articles

Wikiwand AI