須藤求馬

From Wikipedia, the free encyclopedia

別名 碩果園主人?[1]、大聲子[2]、鳴門[2]、鳴門求[2]
生誕 (1857-04-02) 1857年4月2日[3](安政4年3月8日)[3]
徳島県美馬市穴吹町三島字三谷(旧阿波国美馬郡三島村大字三谷)
死没 (1917-10-22) 1917年10月22日(60歳没)[4]
奈良県奈良市[4]
須藤 求馬
すどう もとめ/きゅうま
Motome/kyūma SUDOU
人物情報
別名 碩果園主人?[1]、大聲子[2]、鳴門[2]、鳴門求[2]
生誕 (1857-04-02) 1857年4月2日[3](安政4年3月8日)[3]
徳島県美馬市穴吹町三島字三谷(旧阿波国美馬郡三島村大字三谷)
死没 (1917-10-22) 1917年10月22日(60歳没)[4]
奈良県奈良市[4]
居住 徳島県長崎県東京都大阪府石川県熊本県奈良県
国籍 日本
出身校 東京帝国大学
学問
活動地域 日本
研究分野 漢文学人類学考古学
特筆すべき概念 「有紋素焼土器」
主な業績 北陸地方の考古学的研究
学会 東京人類學會・北陸人類學會
テンプレートを表示

須藤 求馬(すどう もとめ/きゅうま、1857年4月2日安政4年3月8日[3]- 1917年〈大正6年〉10月22日[4])は、日本の教育者徳島県出身。漢文学などの教授として複数の師範学校で教鞭をとり、近代日本の人類学考古学における研究にも参画し「北陸人類學會(北陸人類学会)」を創設した。名の読みは「きゅうま」とする資料もあるが[5]もとめ」が正しいと見られている[3][6]

徳島県美馬市穴吹町三島字三谷(旧阿波国美馬郡三島村大字三谷)にて、幕末期の安政4年3月8日(1857年4月2日)に生まれた[3]。なお『日本考古学人物事典』での名前の読みは「きゅうま」となっているが、金沢大学の資料では「もとめ」が正しいとされる[3][6]

1877年明治10年)4月に官立長崎師範学校を卒業。翌1878年明治11年)2月に徳島師範学校に赴任するが約2年後に退職し、上京して1880年明治13年)5月に中村正直が主宰する同人社に入学する。1882年明治15年)7月に同人社を卒業後、1883年明治16年)9月に東京帝国大学古典講習科漢書課に入学。1887年明治20年)10月に卒業した[3]

その後、大阪府尋常師範学校赴任を経て、1892年(明治25年)7月に35歳で石川の旧制第四高等学校(四高)に赴任した[3]。須藤が同校に迎えられた背景には、この年の春に同校の生徒たちが、教員の質の向上を求めて学校側に現教員陣の一斉更迭を求めるという騒ぎがあり、これによる人事の刷新によって新規採用された1人であったという[6]

四高では倫理漢文歴史・徳島の助教授を務めたが[7]、その間に人類学考古学への興味・関心を抱き始めたらしく、1895年(明治28年)の八木奘三郎との出会い[注釈 1]の頃に東京人類學會(現・一般社団法人 日本人類学会)に入会[3]、さらに考古学会(現・日本考古学会)にも入会した[5]。また同年、四高の他の教員らと共に「北陸人類學會」を設立、機関誌『北陸人類學會誌』を刊行して北陸地方における有力な人類学考古学系学会として精力的な研究活動を行った[9]。須藤が収集した北陸地方出土の遺物は「四高考古資料」として金沢大学が保管している[3]。同じく1895年には北辰会特別会員、北陸史談会発起人にもなっている[7]

同時期に関東地方において東京人類學會会員としても活動しており、1896年(明治29年)の『東京人類學會雜誌』12巻127号で、神奈川県鎌倉市向原古墳群で出土したとされる人物埴輪について紹介した[10]。なお、当人物埴輪について、須藤は自身の手元にあった期間は短く「東京方面に急用があるため小杉大人[注釈 2]に託した」との主旨を記している[11][5]。これらの埴輪資料は現在京都大学および横浜国立大学が所蔵している[12]

同じく1896年(明治29年)の『東京人類學會雜誌』12巻129号においては、現在弥生土器と呼ばれている弥生時代土器に対して「有紋素焼土器」という名称案を提案した[11]。これは弥生土器(かつては弥生式土器)という名称も定着していない初期の日本考古学において先駆的な提唱であったとされる[5]

1897年(明治30年)8月28日に熊本県熊本市旧制第五高等学校(五高)に転任となり、教授として1901年(明治34年)3月16日まで在職した[5][3][注釈 3]。なお、須藤の五高在籍期間は、夏目漱石の同校在籍期間[注釈 4]と重複しており、両者の直接的な交流を示す史料は無いが、同じ修学旅行先に出張命令が出ている事など、近しい距離にいたことが推定されている[3]

須藤がかつて在籍していた四高の「北陸人類學會」は、1902年(明治35年)の創立7周年記念会以降に活動が停止してしまい、須藤自身も五高時代には人類学考古学に関する活動がほとんど見られなくなるが、1904年(明治37年)10月に開催された東京人類學會設立20周年式典には出席している[3]

1901年(明治34年)の旧制第五高等学校退職後、しばらく上京するが、1908年(明治41年)に奈良県奈良市奈良女子高等師範学校に教授として赴任[4]1917年(大正6年)4月27日まで在職していた事が判っている[3]

奈良女子高等師範学校教授を退職したのち、1917年10月22日奈良市で死去[4]

随筆家薄田泣菫が当時大阪毎日新聞にて連載していた随筆茶話』の、1918年(大正7年)5月26日夕刊掲載「460.喜田博士の笑顔」にて、歴史学者喜田貞吉と仲の良かった友人達や門下生のうち、喜田より先に死去してしまった人物の中に「女子高等師範の須藤求馬氏」として名前が挙げられており、この時点で既に故人となっていることや、また喜田貞吉とも交流があったことを示唆する内容となっている[13]

主著

  • 『日本女子 全(上・中・下)』松邑三松堂、山中井冽堂、1901年。 [7]
    • 上笙一郎、山崎朋子 編『日本女性史叢書』クレス出版、2007年。 に再録[14]
  • 『通俗 吉備公伝 完 吉備寺蔵版(上・中・下)』吉備公保廟会事務所、1903年。 [7]
  • 『校訂 浄瑠璃物語評釈 全』吉川弘文館、1906年。 [15]
  • 『実用女手紙(上・下)』西東書房、1908年 - 1909年。 [4]
  • 『女手紙』西東書房、1909年。 [4]

脚注

参考文献

関連項目

Related Articles

Wikiwand AI