頼仁親王
日本の鎌倉時代の皇族
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経歴

母は内大臣・坊門信清の娘西の御方だが、後鳥羽上皇の側近として権力を誇っていた卿二位こと藤原兼子に養育される。承元4年(1210年)親王宣下。母が源実朝の室(西八条禅尼)と姉妹だった関係もあり、建保6年(1218年)には卿二位が北条政子に対して、子がない実朝の後継の征夷大将軍として頼仁親王を東下させることを持ち掛けたという噂が『愚管抄』に記されている。
建保7年(1219年)の実朝横死後、幕府は頼仁親王か雅成親王を後継将軍に所望するが、後鳥羽上皇の反対に遭い実現しなかった[1]。
承久3年(1221年)の承久の乱の結果、父の後鳥羽上皇らが配流されると、親王もこれに連座して備前国児島へと流された。同地において薨去したとされ、児島高徳の曽祖父であるとも伝わる。