頼母木真六
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東京市出身[5]。関源二の六男として生まれ、頼母木桂吉の養子となり、1940年(昭和15年)家督を相続する[3]。慶應義塾大学中退[2][5]。のちカリフォルニア大学に社会学を聴講する[6]。
1919年(大正8年)渡米し、羅府(ロサンゼルス)新聞、日米新聞記者、朝日新聞桑港(サンフランシスコ)特置員、帝国通信外報員、東京朝日新聞記者、1931年(昭和6年[2])日本放送協会に入り海外放送を創設、国際課長、国際部長を歴任した[5]。
1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では東京府第3区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選[6]。衆議院議員を1期務めた[6]。在任中は内閣情報局委員、翼賛政治会政調内閣、逓信兼務委員を務めた[5]。戦後、公職追放となった[7][注 1]。追放解除後の1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙と翌1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙に東京1区から改進党公認で立候補したがいずれも落選した[8]。のち改進党副幹事長を務めた[2]。墓所は谷中霊園。

