山本照
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4人兄妹の三男。少年時代に地元の草相撲を見て以来の相撲好きであった[1][2]。愛知県立第四中学校(後の時習館高校)では相撲部に所属、身体は小さかったが腕力は強く、右四つからの上手投げが得意で県下の中学校対抗相撲大会にも出場した[3]。東京外国語学校(後の東京外国語大学)時代、大相撲の本場所の時期に語学以外の授業をサボっては国技館に通い詰め、学友からは「角狂」と呼ばれるほどであった[4]。
東京外国語学校スペイン語科を卒業後、1925年4月に萬朝報に入社、1927年10月には國民新聞に移り相撲記者として活躍。
1932年、NHKに迎えられ、アナウンサーに転身。1933年1月春場所で実況デビュー。 双葉山定次の全盛期という戦前の相撲熱狂時代を中心に、10年間ラジオ実況を担当した。
1942年1月春場所の放送を最後にアナウンサーから退き[要出典]、NHK名古屋放送局に業務課長として異動。防空警報主任も兼ねていた。戦時中はインドネシアのスマトラ島での占領地放送局開設に関わり、パレンバン、パダン、メダンに滞在した。
戦後、スマトラからシンガポールを経て、1946年5月9日に名古屋港に接岸、帰国。同年7月にはNHK熊本放送局放送部長としてNHKに復帰。1950年東京本部報道部長、1951年7月には戦前にも在籍した名古屋放送局で放送部長となり、後輩の相撲アナウンサーの育成に努めた。当時の部下として、テレビ実況(1953年5月開始)のアナウンサー第1号となる石田吾郎や、「泣きの杉山」として名アナウンサーとなる杉山邦博らがいる[5][6]。
その後NHK大阪放送局次長、放送文化研究所長を経て、1957年6月1日には会長秘書役に就任したが、11月3日に会長の永田清が急逝し、事実上NHKでの仕事は終焉、半月後の11月18日にNHKを定年退職した。
定年後は日本放送出版協会常務取締役、日放印刷社長などを歴任。晩年は東京・阿佐ヶ谷の自宅で悠々自適の生活であったが、90代となった最晩年でも記憶は鮮明で、戦前のスポーツ放送や南方生活について語る貴重な証言者であった[7][8][9]。