額田藩
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関連地図(茨城県)[注釈 1]
藩主となる松平頼元は、水戸徳川家初代・徳川頼房の四男として寛永6年(1630年)に生まれた。正保3年(1646年)に従四位下侍従に叙任され、刑部大輔を称する。
寛文元年(1661年)7月29日に頼房が没し、徳川光圀が水戸藩の第2代藩主となる。寛文元年(1661年)9月、水戸藩主徳川頼房の四男松平頼元が、兄の徳川光圀から水戸藩領のうち新田分2万石を分与されて立藩した[1](内分分知)。額田藩の成立と見なされる。なお、同時に弟の松平頼元(頼房の五男)にも同様に2万石が分知され[2]、保内藩が成立した。
当初は領地を与えられず、水戸藩から2万石分の年貢を与えられる形であったが、翌年には地方(じかた)に改められ、那珂郡内に設定された領地から年貢を直接徴収できるようになった。『土芥寇讎記』には頼元の居所を「常州糠田」とする[3]。
松平頼元は御三家の分家(連枝)であり、参勤交代をせずに江戸に常駐する定府大名であった。元禄6年(1693年)に頼元は死去し、嫡子頼貞が相続した。
元禄13年(1700年)9月25日、将軍徳川綱吉が水戸藩主徳川綱條邸を訪問した際、頼貞に2万石を幕府から与えることとされた[4]。幕府が頼隆に与えたのは陸奥国田村郡内および常陸国茨城・行方・鹿島郡内の2万石である[5]。陸奥国田村郡守山に陣屋を置いたことから、これ以後は守山藩と呼ばれる[6][注釈 2]。
なお、保内藩主・松平頼隆にも同様の措置がとられ、常陸府中藩が立藩した。水戸藩から頼元・頼隆兄弟に分与されていた4万石は水戸藩に還付され、水戸藩の表高は(新田分と合わせ)35万石とされた[7]。