飯尾助友
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飯尾 助友(いのお/いいのお すけとも、生年不詳 - 天正3年(1575年))は、戦国時代の武将。通称弥四右衛門。五味与惣兵衛・名和無理助とともに「牢人衆」として武田信玄・勝頼に仕え、長篠の戦いで討死した。
- 永禄11年(1568年)、武田信玄による駿河侵攻が開始、武田軍の一部は遠江にも侵入した。この時に武田氏に帰順したと思われる[2]。これ以降『甲陽軍鑑』で牢人衆の一員としての活動が確認できる。
- 永禄12年(1569年)、武田信玄が北条領に進攻した際、相模川を渡河する陣ぶれを決めた場面で、牢人衆として登場。
- 天正2年(1574年)、信玄の没後、織田領の東美濃へ侵攻した武田勝頼は、飯羽間城攻めに苦戦した。撤退を勧める家老達に対し、牢人衆や近習衆が自身の出陣を主張。最終的には、手柄を奪われることを恐れた先鋒勢が城を攻め落とした。
- 同年、武田勝頼から所領を与えられた文書が残されている[3]。
- 天正3年(1575年)、長篠城の押さえとして設けられた鳶ヶ巣(鳶ノ巣)山の砦を守っていたが、酒井忠次率いる織田・徳川軍による夜襲で討死した。『長篠合戦図屏風』には、炎上する砦から刀を持って飛び出してくる助友が描かれている[4]。
- ↑ 『甲陽軍鑑』巻十九・末書下巻下。なお、同書では姓を井伊・飯野尾とも表記される。
- ↑ 廣瀬2017、天正2年(1574年)に武田勝頼から与えられた文書に「法性院殿(信玄)遠州御乱入之砌、含忠信最前ニ降参」と記されている。なお、『大日本史料』では、この「遠州御乱入」を元亀3年(1572年)から開始された西上作戦と解釈している。
- ↑ 『大日本史料』
- ↑ 村岡2021