飯田豊二
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静岡県沼津市で父飯田弘と吉田姓の母の間に生まれる。東京工手学校(現在の工学院大学)に進学し、土木工学を修めた[1][2][注釈 1]。
- 1896年(明治29年)鉄道局名古屋鉄道局出張所技手。[3]
- 1897年(明治30年)5月、台湾総督府民政局通信課雇となる[4]。
- 1897年9月 台湾鉄道会社による鉄道建設のため民政局を退職し、会社に移る。[5]
- 1898年(明治31年)3月 台湾鉄道会社の計画が頓挫したため、台湾総督府民政局通信課雇として復帰する[6]。
- 1899年(明治32年)
- 1907年(明治40年)10月 打狗・九曲堂間の工事が完了し営業開始する。[10]
- 1910年(明治43年)10月 技師に昇任。[11]
- 1911年(明治44年) 総督府が推進する鳳山庁(現在の高雄市鳳山区)から阿緱庁(現在の屏東市)に至る鉄道路線阿緱線(現在の屏東線)の建設事業で打狗出張所九曲堂派出所の主任[2][12]。として、当路線で最高難度といわれた[1][2]下淡水渓鉄橋(現在の高屏橋)の架橋工事に携わる。工事期間中、何度も豪雨や増水に見舞われ、飯田は疲労の蓄積から病に倒れる。
- 1913年(大正2年)
