館岡栗山
日本の画家 (1897-1978)
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経歴
秋田県馬川村高崎(後の秋田県五城目町高崎)の生まれ。小学校を卒業後、1911年、秋田師範学校講習科に進学したものの、肋膜炎のため1年で中退する[3]。以後、独学で絵を描き続け、五城目町の落合病院で事務員として就職してからも、折りをみては季節の風物をスケッチしていた。
1919年、22歳のときに家出同然に上京し、絵の修行をしようとしたものの、病を得て半年ほどで帰郷。健康を回復して25歳のときに改めて上京、アルバイトをして生活費を稼ぎながら絵の修行に励んだ。その頃、画号を長春から栗山に改めた。号の由来は、郷里の五城目町のシンボル的な里山である森山が、栗のような形にも見えたことによる。1925年1月からは48回にわたって秋田の県内紙秋田魁新報に「秋田百景」を連載している。
1926年、日本画の世界でさらに研鑽を積むため京都に移り住んだ。1928年、日本美術院の近藤浩一路に師事し、1933年、36歳で「台温泉」という作品で院展に初入選を果たした[2][3]。1936年、近藤浩一路は日本美術院を脱退するが、栗山は師と行動を共にせず、美術院研究会員となって院展に出品を続け、入選を繰り返した。翌年の研究会展作品『雨後』が横山大観賞を受賞[2][3]、これを契機に安田靫彦に師事する[3]。1939年には院友に推された[2]。
1945年4月、48歳で京都から郷里五城目町に疎開[1]、翌年には隣町である一日市町(後の八郎潟町)に移り住む[1]。1951年、地域新聞「湖畔時報」を創刊し、社主になった[3]。1958年、日本画研究グループ「新樹社」を設立、秋田の代表的展覧会である県展の審査員も務めた。1962年、秋田県文化功労者[2][3]。1968年、院展に初入選以来連続入選30回を数え[1]、院展特待・無鑑査となった[2][3]。1970年に勲五等双光旭日章を受章。
著書に『銀婚』、『栗山画談』がある。