馬杉雲外
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天保2年4月28日(グレゴリオ暦1831年5月28日)[注釈 1]、医師であった塩山善四郎[5](全齋[注釈 2])の長男として、京都三条に生まれた[2]。1845年(弘化2年)、数え14で山本亡羊の門下生となって[6][注釈 3]漢詩や歴史を学んだ。江戸にあった昌平坂学問所への遊学を望んだが、病弱であることを理由に父母から反対され、引き続き京都にとどまって大橋長広や清水完和、梁川星巌[8]、森田節斎といった当時在京の学者・歌人の下で学問を続けた。頼山陽にも私淑したという[8]。やがて雲外は尊皇思想を広めることが自身の進む道であると考えるに至り、家督を弟に譲って貸家に住んだ[2]。
このことを聞きつけた興正寺門主の本寂が1855年(安政元年)の正月に彼を招き、馬杉氏[注釈 4][注釈 5]の家督を継ぐよう勧めた。雲外も本寂の博学ぶりや蔵書の多さに感銘を受け、馬杉を継ぐことを了承し本寂の近侍となった。この時期の医療への貢献として、当時まだ普及していなかった種痘の無料接種[10][注釈 6]、また安政年間に京都で流行したコレラへの対策をまとめた『秋窓夜話』の執筆などが挙げられる[11]。
一方で尊皇思想への傾倒は続いており、山城国内の天皇陵を実地検分してその修復を訴えるなどした[12]。安政の大獄が起きると江戸幕府の姿勢に怒り、倒幕を志向するようになった。1863年(文久3年)の天誅組の変に際しては自家製造の硝石で弾薬を製造し、三浦梅之助という変名を使って自ら輸送する[13]など後方支援を行ったが、ほどなく天誅組は壊滅し雲外も翌1864年(元治元年)京都守護松平容保の兵によって捕らえられ投獄された。しかし長州藩の挙兵(禁門の変)が起きたことで雲外は興正寺預かりとなり[14][注釈 7]、自宅軟禁となって明治維新を迎えた。
維新後は民部官聴訟司で判司事に就き[16]、のち大蔵省に移るが[17]職を辞し、東京上野の花園町に蓮水荘[18]・温知塾[19]を開いて後進の指導にあたった。著名な門下生としては根津嘉一郎[15]、田代義徳、入沢達吉(漢詩人としての号は雲荘)[19]などが挙げられる。天誅組に関わった顛末などは、門人にはほとんど語られなかったという[4]。
1898年(明治31年)6月12日[20][注釈 8]死去。墓地は染井霊園。1928年(昭和3年)11月に従五位が贈位された[21]。