馮元常
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経歴
明経に及第した。高宗のとき、監察御史に累進し、剣南道巡察使となった。殖産興業と防災につとめて、剣南道の人々に頼りにされた。永淳元年(682年)、尚書左丞となった。元常は皇后の武則天の権力を抑制するよう高宗に上奏し、武則天に憎まれた。文明元年(684年)、武則天が臨朝称制すると、彼女の意を受けて四方から多くの符瑞が献上された。嵩陽県令の樊文が瑞石を献上し、武則天が朝堂で百官に披露した。元常はこれを偽物と喝破したことから、隴州刺史に左遷された[3][2]。
この年、高宗の葬儀のために天下の刺史が乾陵に集められたが、武則天は元常が陵所に来ることを望まなかった。そこで元常は道中で眉州刺史に転任させられた。先だって剣南では昼間は山谷に潜伏して夜間に横行する盗賊があった。元常が着任すると、自首してきた者を許し、出てこない者を厳しく追捕したため、賊徒は武器を捨てて縛につく者が相次いだ。垂拱2年(686年)、広州都督に転じた[4][2]。
垂拱3年(687年)[5]、交州の首領の李嗣仙が安南都護の劉延祐を殺害して、州県を攻略して回ったため、元常は勅命を受けて李嗣仙を討つことになった。兵士を率いて南シナ海を渡り、先に威勢を見せつけてから、利害を説いて説得したことから、李嗣仙の仲間の多くは降伏して帰順した。元常は李嗣仙を斬り、安南の民心を安堵させて凱旋した。元常の統治の成績はめざましいものであったが、武則天はかれを称賛することはなかった。ほどなく元常は酷吏の周興に陥れられ、洛陽に召還されて獄に下され、死去した[4][6]。