武則天

武周の皇帝、中国史上唯一の女帝。武士彠と楊氏の次女 From Wikipedia, the free encyclopedia

武 則天(ぶ そくてん)は、中国史上唯一の女帝高宗皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。(しょう、)。則天は諡号に由来した通称である(則天大聖皇帝、または則天順聖皇后に由来)。

国名 武周
都城 神都(洛陽
姓・諱 武媚→武照(武
概要 則天皇后 武曌, 国名 ...
則天皇后 武
武周
皇帝
国名 武周
在位期間 天授元年9月9日 - 神龍元年1月24日
690年10月16日 - 705年2月22日
都城 神都(洛陽
姓・諱 武媚→武照(武
諡号 則天大聖皇帝
則天順聖皇后
生年 武徳7年1月23日
624年2月17日
没年 神龍元年11月26日
705年12月16日)(81歳没)
武士彠
楊夫人
陵墓 乾陵
年号 光宅684年
垂拱685年 - 688年
永昌689年
載初:689年 - 690年
天授:690年 - 692年
如意:692年
長寿:692年 - 694年
延載:694年
証聖695年
天冊万歳:695年
万歳登封:695年 - 696年
万歳通天:696年 - 697年
神功:697年
聖暦698年 - 700年
久視:700年 - 701年
大足:701年
長安:701年 - 704年
※「」は「照」の則天文字
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日本では則天武后(そくてんぶこう、拼音: Zé tiān Wǔ hòu[1])と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。古来は「則天」と通称のみで姓名をはっきりさせず呼ばれてきたが、現在の中国では姓を冠して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている[注 1][注 2]

生涯

出生

利州都督武士彠と後妻の楊氏(楊達の娘)の間に次女として生まれ、。生家の武氏は、唐初時代の政治を担った関隴貴族集団の中では傍流に列する家系であったが代々財産家であったため、幼い頃の武照は父から高度な教育を与えられて育った。しかし、12歳のときに父が死去すると、武照は異母兄と従兄に虐げられる生活を送ることとなった。

貞観11年(637年)、太宗後宮に入り才人(二十七世婦の一つ、正五品)となった。ほどなく宮廷に「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」との流言が蔓延るようになると、これを「武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらす」との意ではないかと疑い恐れた太宗は、次第に武照を遠ざけていった。途中、李君羨という武将が「武が栄える」の「武」ではないかと疑惑を持たれ処刑された事件があったが、太宗は李君羨の処刑後もなお武照と距離を置き続けた。

太宗の病重く重態に陥ると、看病した皇太子李治(後の高宗)と初対面し、皇太子に一目惚れされた。貞観23年(649年)太宗の崩御にともない、武照は出家することとなったが、額に焼印を付ける正式な仏尼になることを避け、女性の道士坤道)となり道教寺院(道観)で修行することとなった。1年後、寺院を訪れた高宗との再会を果たした[2]

その頃の高宗のもと、皇后の王氏と、高宗が寵愛していた蕭淑妃が対立し、皇后は高宗の寵愛を蕭淑妃からそらすため、高宗に武照の入宮を推薦した。武照が昭儀(九嬪の一つ、正二品)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃からそれたが、王皇后自身も高宗から疎まれるようになった。

立后

高宗は、武照を昭儀から新たに設けた宸妃にさせようとしたが、宰相韓瑗来済の反対で実現しなかった[3]。同年、中書舎人李義府などの側近が皇后廃立と武照擁立の意図を揣摩し、許敬宗崔義玄袁公瑜らの大臣が結託して高宗に武照立后の上奏文を送った。高宗は、王皇后を廃して武照を皇后に立てることの是非を重臣に下問した。

この時の朝廷の主な人物は、太宗の皇后長孫氏の兄で高宗の伯父にあたる長孫無忌、太宗に信任されて常に直言をしていた褚遂良高祖と同じ北周八柱国出身の于志寧、太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた李勣の4人であった。下問に対して、長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は賛成も反対も言わず、李勣のみが皇后の廃立を消極的に容認した[注 3][注 4]

10月13日11月16日)、高宗は詔書をもって、「陰謀下毒」の罪[注 5]により王皇后と蕭淑妃の2名を庶民に落として罪人として投獄したこと、および同2名の親族は官位剥奪の上嶺南への流罪に処すことを宣告した。その7日後、高宗は再び詔書を発布して、武照を立后すると共に、諫言した褚遂良を潭州都督へ左遷した。なお、節操がなく、前後して父子二人の皇帝の後宮に入るという世論を忌避して、詔書には「事同政君」という。太宗の妃になったのは事実だが、早くも皇太子に下賜された、という解釈である。

11月初旬、皇后になった武照は監禁されていた王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きに処した上、惨殺した[注 6][注 7][注 8]

垂簾政治

武照は高宗に代わり、垂簾政治を行った[注 9]。武照は自身に対する有力貴族(関隴貴族集団)の積極的支持がないと自覚していたため、自身の権力を支える人材を新興富裕層から積極的に登用した。この時期に登用された人材としては、狄仁傑姚崇宋璟張説などがいる。これらは非貴族の出身であり、貴族制下では宮廷内での出世が見込めない人物だった。武皇后は人材の採用に当たって、身分のみならず才能と自身への忠誠心を重視した。結果として張説以外はおおむね評価が高い。

顕慶5年(660年)、新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こし、百済を滅ぼした。倭国日本)・旧百済連合軍と劉仁軌率いる唐軍が戦った白江口の戦い(白村江の戦い)にも勝利し、その5年後には孤立化した高句麗を滅ぼした(唐の高句麗出兵)が、武皇后の暴政と営州都督の趙文翽の横暴により契丹が大規模な反乱を起こして河北へ侵攻するなど、遼東遼西の情勢はかえって悪化した。

出自を問わない才能を発掘する一方で、武照は娘の太平公主薛懐義張易之張昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思武承嗣ら親族の武氏一族を重用し、他方で高宗の息子である皇太子を次々に殺害した。また佞臣許敬宗などを任用し、底なしの密告政治により反対者を排除した。そのために来俊臣中国語版索元禮中国語版の徒ばかりか周興中国語版と『羅織経』の作者らのような元々法律に通暁した「酷吏」が総じて反対派を監視する恐怖大獄を行った。この状況に高宗は、宰相を招いて武照の廃后を計画するが、武皇后は計画を事前に察知し、皇帝を妨害し専横を続けた。高宗の晩年、病を得た際に治療を望んだが、武照は治療を中止させた。

弘道元年(683年)、高宗が崩御すると太子の李顕(中宗)が即位するが、中宗の皇后韋氏が血縁者を要職に登用したことを理由に、太平公主を使って中宗を廃位し、その弟の李旦(睿宗)を新皇帝に擁立した。睿宗は武后の権勢の下、傀儡に甘んじることを余儀なくされた。

武照の専横に対して、皇族は男性・女性を問わず次々と挙兵に動いたが、いずれも打ち破られた上に族滅の惨状を呈した。民衆は武照に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至らしめ多くの浮戸や逃戸を招いたが、農民蜂起が起こるほどの情勢ではなかったため、反乱軍に同調する者は少なく、大勢力には発展しなかった。この時に反乱軍の檄文を詩人の駱賓王が書いたが、その名文に感嘆した武照が「このような文才のある者が(官職につけられずに)流落しているのは宰相の責任だ」と言ったという逸話があるが、そのとき宰相張説は黙って返答しなかった。

登位

百美新詠図伝

唐の宗室の挙兵を打ち破った後、武后は女帝出現を暗示する預言書(仏典中の『大雲経』に仮託して創作された疑経)を全土に流布させ、また代に存在したとされる「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、帝位簒奪の準備を行った[注 10]

天授元年(690年)、武后は自ら帝位に就いた。国号を「」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李姓に代えて武姓を与えられた。この王朝を「武周」と呼ぶ(国号は周であるが、古代の周や北周などと区別するためこう呼ぶ)。

即位後

奉先寺大仏

帝室を老子の末裔と称し「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた[注 11]。また、長安年間(701~704)に悲田養病坊を設置し、仏僧尼に運営を任せて貧窮孤老を救済させたが、これは光明皇后による悲田院施薬院の設置にも影響を与えたとされる[4]

武則天の治世において最も重要な役割を果たしたのが、高宗の時代から彼女が実力を見い出し、重用していた稀代の名臣の狄仁傑である。武則天は狄仁傑を宰相として用い、その的確な諫言を聞き入れ、国内外において発生する難題の処理に当たり、成功を収めた[注 12]。また、治世後半期には姚崇・宋璟などの実力を見抜いてこれを要職に抜擢した。後にこの2名は玄宗の時代に開元の治を支える名臣と称される人物である。武則天の治世の後半は、狄仁傑らの推挙により数多の有能な高級官僚を登用した。一方で、地方採用,実務採用の官吏の昇進を禁止し、身分階級を固定化させた。

晩年

晩年の武則天が病床に臥せがちとなると、宮廷内では唐復活の機運が高まった(武則天は武姓にこだわって甥の武承嗣(698年没)に帝位を譲ろうとしていたが、「子をさしおいて甥に譲るのはに反する」との狄仁傑の反対で断念していた。子とは即ち高宗との子であり、唐王朝の復活となる)。当時、武則天の寵愛を受け横暴を極めた張易之・張昌宗兄弟を除くために、神龍元年1月24日705年2月22日)、宰相の張柬之は中宗を東宮に迎え、兵を発して張兄弟を斬り、武則天に則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して位を退かせた。これにより中宗は復位し、国号も唐に戻ることになった。しかし、武氏の眷属は李氏宗室を筆頭とする唐朝貴族と密接な姻戚関係を構築しており、武則天自身も太后としての立場を有していたため、唐朝再興に伴う粛清は太平公主や武三思などには及ばず命脈を保った。その後まもなく武則天は崩御し、706年(神龍2年)5月、乾陵に高宗と合葬された。唐代の帝陵は、代始の大乱に勝るとも劣らない幕引きの兵乱のさなか、京兆尹の温韜にすべてが盗掘される羽目にあったが、乾陵のみは発掘予定の夏に激しい雷雨が数晩続き、不成功に終わったという。

諡号

遺詔には「帝号を取り去り則天大聖皇后と称すべし」とあったといわれる。唐王朝での諡号はその後も変遷を経る。

  1. 唐隆元年(710年)、中宗、天后と改める。
  2. 景雲元年(710年)、睿宗、大聖天后と改める。
  3. 延和元年(712年)、睿宗、天后聖帝と改める。
  4. 開元4年(716年)、玄宗則天皇后と改める。
  5. 天宝8年(749年)、玄宗、則天順聖皇后の諡を追加する。

人物・逸話

「中国で唯一の女帝」という壮挙もあり、武則天の人となりを伝える話は多い。この項で記したもの以外に、本記事の注なども参照のこと。

出生と外見にまつわる逸話

武則天が生まれて間もない頃、袁天綱という名道士が来て彼女の相を占った際、人相を見た袁天綱が「この子供は必ずや天に昇るであろう」と述べたという伝承がある。その伝承によれば、父が将来の皇后となることを期待して武則天に高度な教育を与え、別名をと命名した理由には、乳児としての武則天の容姿が極めて美しかったことだけではなく、その予言を信じたこともあったとされる。

また、史書の伝えるところによれば、少女期の武照は漆黒の髪、特徴的な切れ長で大きな目、雪のような肌、桃色の唇、薔薇色の頬、大きな胸、見る者を魅了する媚笑、そして聡明な頭脳を備えていたとのことである。

改称・改変好き

称号や尊号、都市の名前など、人や事物に対して、伝統的に使用されてきた呼称に改変を加えることを非常に好んだとされる。顕慶4年(660年[要出典]には皇帝と皇后をそれぞれ天皇天后とした。この改称の狙いは、天皇と天后という相互に比肩する字義を持つ組み合わせへと尊号を改めさせることで「皇后が国政に介入しているに過ぎない状況」を「天后が正統かつ正当な支配権を行使している状況」へと変貌させ、現状における自己の政治への介入状況を追認させることにあったと言われる。[要出典][5]地名の改称の例は洛陽神都とした例や、自らの出身県である文水県武興県と改めた例などであり、武則天の思想を反映するとともに、皇帝である自身の権威を高めることや、あまり家格の高くなかった生家の武氏の権威を高めることなどを意図したものが見られる。

皇帝の諡号について、古から一字または二字の諡字を与え、「○皇帝」または「○○皇帝」と呼ばれていた。唐代初期にもこの習慣が続いた。最初は唐の高祖は「太武帝」と呼ばれ、太宗は「文帝」と呼ばれた。しかし674年(上元元年)に高宗と武則天は太宗の諡号を「文武聖皇帝」と改め、その後、清朝まで皇帝の諡号はますます長くなっていった。その結果、唐代以降の皇帝は諡号でなく廟号で呼ばれるようになった。

武則天は漢字の改変も行い、則天文字と呼ばれる新しい漢字を創っている。その数は20字程度であり、今日使用されることはほとんどないが、「圀」の字は日本で徳川光圀や、本圀寺に使用されている。この改変は「國」がくにがまえの中に「惑」を含むことを武則天が忌み嫌ったもので、その代替としてくにがまえの中に「八方」を加えたものである。他にも、自らの名の「照」の代替として、空の上に日と月を並べた「」(明+空)を造字しており、いずれも思想的な理由に基づくものだった。

武則天はまた元号も頻繁に変更した。元号に関しては下記の一覧を参照。

元号

則天文字があるもの(*印の元号以下の使用例参照)は通常の文字に戻した。

  • 證聖則天文字の「證聖元年九月九日」
    • 注:「證聖」は武則天時代の年号の一つ。
  • 天授年正月初一則天文字の「天授二年正月初一」
    • 注:「天授」は武則天時代の年号の一つ。「正月初一」は元日。
天后時代
  1. 光宅 684年
  2. 垂拱 685年 - 688年
  3. 永昌 689年
  4. 載初 690年
聖神皇帝時代(武周)
  1. 天授 690年 - 692年*
  2. 如意 692年
  3. 長寿 692年 - 694年
  4. 延載 694年*
  5. 証聖 695年*
  6. 天冊万歳 695年 - 696年*
  7. 万歳登封 696年
  8. 万歳通天 696年 - 697年*
  9. 神功 697年
  10. 聖暦 698年 - 700年*
  11. 久視 700年
  12. 大足 701年
  13. 長安 701年 - 704年

皇族・親族に対する粛清

則天武后は、自分の地位の脅威となる人物を殺害している。ライバルである王皇后蕭淑妃中国語版を初めとする、多くの李唐の皇族およびその末裔(関連する人物は高祖の子十一男の韓王李元嘉 ・十四男の霍王李元軌・十八男の譙王李元名・十九男の魯王李霊夔 ・七女の常楽公主、太宗の子四男の魏王李泰・六男の蜀王李愔・七男の蒋王李惲・八男の越王李貞・十男の紀王李慎・十四男の曹王李明、高宗の子長男の燕王李忠・三男の沢王李上金・四男の許王李素節)は相次いで殺された。また大臣の長孫無忌褚遂良裴炎上官儀・程務挺らを殺害した。

自分の親族に対しても、個人の好き嫌いで男女問わず殺害も行われた。その中には長男の李弘、次男の李賢、三男の李顕(中宗)の元妻趙氏、四男の李旦(睿宗)の妻劉氏・竇氏玄宗の母)、次女の太平公主の元夫薛紹、孫の李重潤と李光順、孫娘の永泰公主、姪の魏国夫人賀蘭氏が含まれている。実家がある武氏の一族の中にも武元慶・武元爽・武惟良・武懐運・武延基・武攸曁の元妻も殺害された。

また、長女の安定公主も殺害されたという説もある。

隋唐嘉話の記述

武后は、吏部の選抜において事実と異なる者が多いという理由で、試験の日に自ら姓名を糊で隠させ、匿名のまま採点して成績の等級を定めさせた。答案用紙に姓名を糊で隠す方法は、これによって始まったのである。[6]

武后の時代、匭(みつげ)に投書する者の中には、政事を述べずに、むしろ軽薄な戯言をもってする者がいた。そこで使者を置き、まずその書奏を閲した上で、投函を認めることとした。匭院に有司を置くことは、これによって始まったのである。[7]

武后が初めて周と称した際、臣下の心が不安定であることを案じ、人に自ら供奉官に挙げられるようにした。正員のほかに里行を多く設置し、拾遺・補闕・御史などは、ついには「車載い斗量(はかる)」と詠われるほどに至った。御史台の令史で、台に入ろうとする者がいた。ちょうど里行の御史数人が門内に立ち集まっているところへ出くわし、令史は驢(ろば)から下りずに、その間を突っ切って進んだ。御史たちは激怒し、杖で打とうとした。令史が言うには、「今日の過ちは、実にこの驢にございます。どうかまず驢を叱責させていただき、その後に罰をお受けいたします」と。御史たちはそれを許した。令史は驢に向かって言った。「お前の技芸はどこにある? 精神はこの上なく鈍い。何という驢の畜生が、よくも御史里行などとやっているな!」これを聞いて御史たちは恥じ入り、取りやめた。[8]

武后が臨朝称制していた頃、薛懷義の権勢は当時を圧倒し、王や公主でさえも彼にへりくだっていた。僕射の蘇良嗣が朝堂で懷義に出会ったところ、懷義は傲慢な態度で礼をとらなかった。蘇良嗣は激怒し、左右の者に命じて懷義を引きずらせ、平手で数十回打った。武后はこれを聞いて言った。「阿師(懷義)は北門から出入りすべきである。南衙は宰相たちの往来する場所だ。彼らに触れてはならない。」[9]

武后は閻知微と田帰道を突厥に使者として派遣した。帰道は帰還して「突厥は叛きます」と報告したが、知微はこれに反論した。后はそこで知微に多額の金帛を持たせ、武延秀を伴って突厥の可汗の娘を娶らせに行かせた。突厥は果たして使者を留め置いて侵攻してきた。そして知微を可汗と同格に扱い、これをもって中原の人々に示し、趙州・定州などを大いに破り、黄河以北は騒然とした。朝廷は知微が国を売ったとして、閻氏の一族を皆殺しにした。知微はそのことを知らず、間もなく逃げ帰ってきた。しかし武后はすでに誅戮を命じていたため、彼を「臣子の憎む奸悪な者である」と宣言し、百官に好きに処分させることとした。そこで兵刃が一斉に浴びせられ、要職にない者は、順番が回ってこない者もいたという。[10]

武后が初めて明堂を造営した。明堂の後、さらに五層の天堂を造営すると、天堂からは明堂を見下ろすことができた。完成しないうちに、両方とも天火によって焼け落ちた。現在の明堂は、以前に比べて規模は低く狭くなっているが、それでもなお三百余尺の高さがある。[11]

武后は天堂を造営して大仏を安置し、大鐘を鋳造してそれに配した。天堂が焼失した後、鐘はまた鼻が折れた。中宗の時代になり、武后の志を継ごうとして、仏像を削って高さを縮め、聖善寺の閣を建ててそこに安置した。現在の明堂は、当初はわずかに南西方向に傾いていたが、工匠が木材を用いてその中を支えた。武后は人に見られるのを嫌い、そこで九龍が絡み合う状の装飾を追加させた。その円蓋の上にはもともと一羽の金鳳が施されていたが、この時に鳳を珠に改め、群龍がそれを捧げる形とした。[12]

武后が洛陽に赴こうとしたとき、閿鄉県の東にさしかかると、馬が突然進まなくなった。巫者を召して尋ねさせたところ、晋の龍驤将軍王濬が言うには、「臣の墓は道の南にございます。しばしば薪を取る者どもに悩まされております。大駕が今日お着きになると聞き、かくして哀れみを求めた次第でございます」と。后は敕して、墓から百歩以内は耕したり薪を取ったりすることを禁じさせた。今もなお、その地には荊棘が生い茂っているという。[13]

武后が龍門を遊覧された際、群臣に詩を作るよう命じ、先に完成させた者には錦の袍を賜うとされた。左史の東方虬がすでに拝領し、席に着いたばかりのところ、宋之問の詩も完成した。その詩は文理ともに優れており、左右の者たちは皆これを称賛した。そこで武后はその場で袍を奪い取り、之問に衣せられた。[14]

酉陽雑俎の記述

則天が生まれたばかりの夜、雌の雉が皆鳴いた。右手の中指には黒い一本の毛があり、左に巻いて黒子のように見えたが、それを引き伸ばすと一尺余りにもなった。[15]

駱賓王が徐敬業のために檄文を作り、大周の悪事や過失を徹底的に列挙した。則天が「蛾眉は人に譲ることを肯んぜず、狐媚は偏に主を惑わすこと能し」という箇所を読んだときは、ただ微笑んだだけであった。しかし「一抔の土いまだ乾かず、六尺の孤安くにかある」に至っては、不快そうに言った。「宰相はどうしてこのような人物を見逃すことがあろうか!」[16]

睿宗が初めて含涼殿に生まれた際、則天は殿内に仏堂を造り、そこに玉像が安置されていた。睿宗が成長し、暇に任せてその側にいることがあったところ、玉像が忽然と口を開いて言った。「お前は後日、天子となるであろう。」[17]

朝野僉載の記述

永徽年間以降、天下で《武媚娘歌》が歌われるようになり、後に武氏を皇后に立てられた。高宗が崩御されると、則天は臨朝称制し、国号を大周と改めた。二十余年の間、武后は強盛を極め、武三思ら梁王・魏王・定王はそれぞれ開府し、その他の郡王十余人に至るまで、まさに鼎の軽重が移らんばかりであった。咸亨年間以降、人々は皆こう言った。「軽々しいことを言うな、阿婆が怒られるぞ。三叔が聞けば笑い殺されるぞ」。後に果たして則天が即位し、孝和帝がこれを受け継ぐまで続いた。阿婆とは則天のことである。三叔とは、孝和帝が第三子であったことを指す。魏僕射の子に名を叔麟という者がいた。讖緯(しんい)に通じた者が言った。「『叔麟』は反語すれば『身戮』である」と。後に果たして誣告により罪に落とされ、誅殺された。[18]

天授の頃、則天は新字を改めることを好み、また多くの忌避を設けていた。幽州の者で尋如意という人物が、密封した上奏文を奉りて言った。「『国』という字の中にある『或』は、もしかすると天象を乱すものです。どうか(国字の)口の中に『武』の字を入れて、これを鎮められますように」と。則天は大いに喜び、制を下してすぐにこれに従った。一月余りして、また密封した上奏文を奉る者があり、言った。「『武』が口の中に退いているのは、『囚』という字と変わりません。まことに不吉の極みです」と。則天は愕然とし、急いで先の制を撤回させ、改めて(国字の)中を「八方」の二字とするよう命じた。後に孝和帝(中宗)が即位すると、果たして則天を上陽宮に幽閉した。[19]

則天朝に鼎師という者がいた。瀛州博野県の人で、奇異な行いを持っていた。太平公主がこれを則天に進献すると、則天は試しに銀の甕に酒三斗を盛らせたところ、彼は一気に飲み干した。また「臣は醤を食べることができます」と言ったので、すぐに銀の缸に醤一斗を盛らせると、鼎師は匙で掬って食べ、たちまちにして食べ尽くした。則天が官職を与えようとすると、鼎師は「出家したいと願います」と言った。そこで剃髪させた。後に則天が退位し、李唐が復辟した際、鼎師は言った。「如来の螺髻、菩薩の宝首、もし道を修めんと欲すれば、どうして剃髪する必要があろうか」と。そして髪を伸ばし始めた。張潜に命じて百回杖打ちさせたが、歩行に支障はなく、また瘡もできなかった。当時の人々はその理由を測りかねた。[20]

大足年間、妖妄の者で李慈徳という者がいた。自ら符書による厭勝の術を使えると称し、則天は彼を宮中に安置した。豆を撒いて兵馬と成し、地に描いて江河と為し、給使(宮中で使役される者)たちと結託して竹を削って槍とし、布団を巻いて鎧とした。三更(午後11時から午前1時頃)に宮中で反乱を起こすと、宮人たちは騒ぎ乱れ、互いに殺し合う者が十人中二、三人に及んだ。羽林将軍楊玄基が宮中から叫び声がするのを聞き、兵を率いて関門を切り破って入り、慈徳と宦官数十人を殺した。惜しいかな、慈徳は厭勝の術を以て生計としながら、同じく厭勝の術によって命を失ったのである。[21]

則天は瑞祥を好んだ。拾遺の朱前疑が夢の中で「則天の白髪が黒く変わり、歯が抜けた後に新たに生えた」と語ったところ、即座に都官郎中を授けられた。司刑寺の囚人三百余人は、秋分の後、どうすることもできず、獄の外壁の隅っこに聖人の足跡を偽造した。長さ五尺である。夜半になると、三百人が一斉に大声で叫んだ。内使が押し問答すると、「昨夜、聖人が現れ、身長三丈、顔は金色で、『お前たちは皆、冤罪である。恐れることはない。天子は万年の御世であり、まもなく恩赦があってお前たちを放免するだろう』とおっしゃいました」と答えた。松明で照らしてみると、巨大な足跡があるのを確認した。そこで則天は天下に大赦を行い、元号を大足元年と改めた。[22]

周(武周)の則天朝の頃、蕃人が上封事(密封した上奏文)を奉ると、多くが官職を加えられ賞賜を受け、右台御史にまでなる者もいた。ある時、則天が郎中張元一に問われた。「外で何か可笑しいことはあるか」と。元一が答えて言うには、「朱前疑は緑の袍を着、逯仁傑は朱の袍を着ています。閻知微は馬に乗り、馬吉甫は驢(ろば)に乗っています。名を姓として李千里とし、姓を名として呉棲梧としています。左台の胡御史、右台の御史胡(胡人の御史)です」と。胡御史とは胡元礼のことである。御史胡とは蕃人で御史になった者のことだが、すぐに他の官職に改められた。[23]

則天が革命(武周への改朝換代)を行った際、推挙された者は試験を受けずに皆官職を授けられ、家からいきなり御史・評事・拾遺・補闕にまでなる者が数えきれないほどいた。張鷟は謡を作って言った。「補闕は車に連なりて載せられ、拾遺は斗で平らに量られる。杷で推す侍御史、碗で脱ぐ校書郎」。当時、沈全交という者がいた。傲慢で放縦に振る舞い、才能を誇示して自己顕揚し、高い巾子をかぶり、長い布衫をまとい、南院でこの謡を吟じ、さらに四句を続けて言った。「評事は律を読まず、博士は章を尋ねず。面糊の存撫使、瞋目(ねむそうな目)の聖神皇」。そこで杷推御史の紀先知に捕らえられて左台に連行され、朝堂で対仗の上弾劾された。朝政を誹謗し、国風を敗るものとして、朝堂で杖刑に処した上で、法司に付すよう請うたのである。則天は笑って言った。「そなたたち職官がただ濫発でさえなければ、天下人の言葉を何の憂いとしよう。罪に処するには及ばず、すぐに放してやるがよい」。紀先知はそこで顔色を失った。[24]

則天が内廷で宴会を催し、大いに盛り上がっていたところ、河内王武懿宗が忽然と立ち上がり奏上した。「臣、急ぎ君に告げ、子、急ぎ父に告げます」と。則天は大いに驚き、引き寄せて問うと、懿宗は答えた。「臣の封戸からの物納は、従前は王府で自ら徴収しておりました。ところが最近、勅によって州県が徴収して送付することとなり、損耗が甚だしいのです」と。則天は激怒し、しばらく天井の垂木を見上げた後、言った。「朕は親族たちと酒を飲み楽しんでいたところだ。お前は親王でありながら、たかが三二百戸の封物のために、私を驚かせて死にそうにさせるとは。親王たる資格なし」。引きずり下ろすよう命じた。懿宗は冠を脱いで平伏して罪を謝した。諸王たちが「懿宗は愚かで鈍く、意図しない過ちでございます」と救いを求めたので、ようやく則天は許した。[25]

則天が政権を執っていた頃、左衛兵曹の劉景陽が嶺南に使者として赴き、秦吉了(八哥の一種)という鳥の雄雌一対を入手した。人間の言葉を解する鳥である。都に戻ってからこれを進献したが、雌の方だけを留めておいた。すると雄は煩いて餌を食べなくなった。則天が「どうしてそんなに元気がないのだ」と尋ねると、鳥は自らの言葉で「私の連れ合いが使者の者に捕らえられており、今はそれを恋しく思っております」と答えた。そこで則天は景陽を呼び寄せて言った。「お前はなぜ一羽の鳥を隠して進献しないのか」。景陽は頭を叩いて謝罪し、雄を進献した。則天は彼を罪に問わなかった。[26]

周の聖暦年間、洪州に胡超という僧がいた。出家して道を学び、白鶴山に隠れ住み、わずかながら法術を持ち、自ら数百歳であると称していた。則天は彼に長生不老の薬を調合させ、その費用は巨万に及び、三年かかってようやく完成した。自ら三陽宮に薬を進上すると、則天はこれを服用し、神妙であるとし、彭祖と同じく長寿を望んで、元号を久視元年と改めた。超を山に帰し、賞賜は非常に厚かった。しかし薬を服用してから三年後、則天は崩御した。[27]

則天の時代、猫と鸚鵡を同じ器で餌を食べるように調教し、御史の彭先覚に監督させ、百官及び天下の考使(朝集使)に広く見せた。見せ終わる前に、猫が空腹のあまり鸚鵡を噛み殺して食べてしまった。則天は甚だしく恥じ入った。「武」は国の姓であり、これはおそらく不吉な兆しであったのであろう。[28]

則天が政権を執っていた頃、尚食奉御の張恩恭が、牛舎の隙間にいた蚰蜒(げじ)を進上した。その大きさは箸ほどもあった。則天はそれを玉の箱に納め、恩恭を召し寄せて見せながら言った。「昨日、牛舎の隙間にこれがあったが、これは極めて有毒なものである。近ごろ、鶏が百足虫を食べて忽然と死んだことがあった。腹を開けてみると、中に蚰蜒が一手一杯もあり、他の虫はみな消化されていたが、これだけは溶けていなかった。朕は昨日以来、気分が悪くて物が食べられない」。恩恭は頭を叩いて死罪を請うたが、(則天は)これを赦免し、宰夫と共に嶺南に流罪とした。[29]

後世の創作

混唐後伝

明代小説『混唐後伝』において、武则天(ぶそくてん)の本名は武媚娘(ぶびじょう)という。その母は夜、玉面の狐の夢を見て身ごもり、生まれた娘は端麗であった。14歳のとき、后宮の秀女を選ぶこととなり、宮中に入る。太宗は媚娘に才人の位を賜り、太子の兄弟間の後継争いを平定し、晋王を太子に立てることに参与し、早くもその才覚を発揮した。太宗が病に伏すと、太子の晋王が見舞いに入り、武才人の才色に驚き、人目を避けて玉を贈り、密かに愛を誓い合った。太宗は病床で「女主武王、天下を代つ」との占いの言葉を思い起こし、武を除こうとするが、ついには忍びず、武は尼寺に入ることを願い出た。太宗が崩御し、高宗が即位すると、太宗の命日の際に感業寺に参詣し、密かに寺の主に武に髪を伸ばさせるよう命じた。数か月後、宮中に戻り、昭儀に封ぜられ、太子顕(あきら)を生む。武昭儀はさらに自らの産んだ女児を密かに殺して王皇后を陥れ、高宗はついに王皇后と蕭淑妃を廃し、武氏を皇后に立てた。武后はその父母を封じ、甥の武三思に官爵を賜い、王皇后と蕭淑妃の手足を断ち、酒瓮の中に投じた。百官の奏事は武后が裁決し、「天后」と号した。高宗は淫乱により政治を放棄して崩御し、天后は太子顕を立てて帝とし、これが唐の中宗であり、韋妃が皇后となった。その後、中宗が自分の行状の不行跡を諫めたことに怒り、中宗を廃して廬陵王とし、房州に遷した。彼女は酷吏の来俊臣らを重用して地位を固めた。時に冬初め、御園には色彩がなく、彼女は百花を咲かせて瑞慶を彰らかにしようとし、即座に詔を草して花神に春を借りることを求めたところ、果たして群枝は艶を吐き、万花ことごとく咲き誇った。眉州刺史の李敬业は揚州において駱賓王と共に檄文を発し、旗を挙げて武を討とうとした。天后は兵を遣わして李を平定したが、駱賓王の武を討つ檄文を見て、その才能を大いに賞賛した。事が平定すると、天后は唐を周と改め、自ら聖神皇帝と称し、武氏の七廟を立てた。その後、宰相の狄仁傑の諫めにより廬陵王を呼び戻し、朝廷には直臣が次第に増えた。張柬之らは狩りを装って廬陵王と密議し、天后の側にあった張易之・張昌宗の二逆臣を排除した。中宗が復位すると、母のために武氏の一族を残し、武则天を上陽宮に遷した。武则天は過去のことを思い起こし、夢の如しと感じ、憂い泣いて病に伏し、数日を経ずして崩御した。作者はここに、端麗で聡明、権略と深謀遠慮に富んだ強い女性像を描き出しており、中国の歴史上まれな女皇帝である。[30]

隋唐演義

清代小説『隋唐演義』では、武则天の私生活における淫乱な一面が誇張され、宿命論的な解釈が加えられている。多くの詳細は筆記小説や民間伝承に取材している。出生前、その父は李密が「十余年間借りる」と言う夢を見た。七歳で学問を始め、先生は彼女の容貌が端麗だったことから、媚娘と名付けた。十二、三歳の頃にはすでに同級生と密通していた。その後、唐の太宗に才人として選ばれ、聡明で敏く、様々な楽器も一度学べば身につけ、また人を媚びることに長けていたため、深く寵愛された。太宗が病に伏せると、隙に乗じて皇太子と関係を持った。姓が図讖に当たることから、自ら願い出て尼となった。一時的に実家に戻ると、すぐに甥の武三思と共に寝た。感業寺に入ると、寺の尼である懐清の従弟の馮小宝と密通した。高宗が即位すると、彼女を宮中に迎え入れ、昭儀とし、続けて一男一女を産んだ。王皇后が見舞いに訪れると、自ら女児を扼殺して皇后の罪に仕立て上げ、さらに様々な手段を講じ、ついに高宗に王皇后を廃し、自分を皇后に立てさせた。彼女はあらゆる手段で媚び惑わせ、高宗に目の病気と体調不良を患わせ、それに乗じて垂簾聴政を行うようになった。また馮懐義(小宝)を宮中に迎え入れて淫楽にふけった。中宗が即位すると、わずかに諫めただけで、彼女は中宗を廃した。全ての政務は自分が掌握した。酷吏の周興や来俊臣を用い、罪をでっち上げて唐の宗室や異己者を大量に殺害し、国号を「周」と改め、正式に皇帝に即位した。徐敬业が兵を起こして周を討とうとし、駱賓王が檄文を草した際には、その文辞が辛辣であったが、彼女はそれを見ても少しも怒らず、「このような才能がありながら、流浪して遇されないままでいたのは、これは以前の宰相の過失である」と、かなり度量の大きさを見せた。晩年には、張易之や張昌宗などの側近の寵愛者がいた。宰相の狄仁傑が面と向かって昌宗を辱めたが、彼女は問い詰めることなく放置した。最後に、張柬之らが張易之・張昌宗の二人を誅殺すると、彼女はようやく中宗に譲位し、間もなく病死した。[31]

反唐演義

清代小説『反唐演義』(『薛剛反唐』とも呼ばれる)において、武则天は唐の高宗の皇后である。高宗の死後、後継者となった中宗を廃して廬陵王とし、自ら皇帝に即位した。武氏一族の武三思らを寵愛任用し、唐室の旧臣を誅殺し、自身は終日、側近の張保、張宗昌らと淫楽にふけった。張保が薛剛に打ち殺されると、彼女はその復讐として薛丁山一家三百余名を誅殺し、薛家の屋敷跡の瓦礫の下に乱葬し、その上に鉄丘墳を築いて鎮圧し、兵士を駐屯させて監視させた。彼女は百官の夫人を集め、公然と一人ひとりに寝室の秘事を細かく尋ねた。これにより巻簾大使の薛敖曹を見つけ出し、彼と淫乱し、如意君と封じた。彼との間に男子を産むが、その顔はろばのようであったため、後園の水中に捨てさせた。後に西番の張祖師によって山の中に救い出され、仙道の修行をすることとなる。彼女は薛剛が季龍山で兵を集めていると知ると、武三思らを派遣して軍を率いて包囲討伐させた。薛剛は単身包囲を突破し、天雄山に逃れた。再び軍を派遣して包囲攻撃させたが、敗北させられた。徐敬业が楊州で兵を起こして武を討つと、彼女は全力でこれに対処し、ようやく平定したところで、薛剛と程咬金がまた九煉山で兵馬を集めた。彼女は武三思を派遣して征討させ、五度にわたって出兵したが、いずれも大敗して帰還した。薛、程の軍が臨潼関まで進軍すると、薛驢頭が師の命を受けて山から下り救援に現れた。彼女は彼を太子兵馬大元帥に封じた。驢頭は飛鉢で薛剛を生け捕るが、その後樊梨花によって救出され、驢頭は殺され、薛剛の軍は長安の城下に迫った。彼女はやむを得ず武三思、張君佐らを天牢に下し、狄仁傑を派遣して城から出て講和させた。こうして中宗に譲位し、間もなく病死した。小説は彼女を、権勢欲が極めて強く、陰険で残忍でありながら淫らで放縦な女帝の形象として描き出している。『反唐演義』においては、一方で彼女は賢相の狄仁傑を任用しているため政治はなお明澄であるが、他方でより具体的に彼女の淫乱ぶりが描かれている。蓮居士の序に曰く、「武氏は一婦人をもって、世に出でざるの才略を具え、賢能を鼓舞し、英雄を顛倒し、朝委裘(幼主を擁して政を行うこと)して乱れず、誠に乾坤を旋転するの手有り。ただ宮闈の淫乱、穢徳の昭彰なるは、言うに難く、以て述べ難し。伝奇の家又復た演じて文と成し、曲かに描写を加え、……ほとんど目に堪えざるもの有り」と。『説唐三伝』と『反唐演義』の二書の作者は、いずれも男尊女卑の伝統的観念から出発し、その私生活を際立たせて醜悪化している。[32]

鏡花縁

清代小説『鏡花縁』において、武则天はもともと天星の心月狐であり、天下に降りて皇帝に生まれ変わる。唐中宗の母である。即位後、中宗を廃して廬陵王とし、房州に貶め、国号を周と改め、年号を光宅とした。ある厳しい冬の大雪の寒さの日、酔いに乗じて「百花咲き誇れ」と詔を下し、これにより百人の花神が凡間へと贬じられた。その後、恩赦の詔を発し、科挙によって才女を選抜し、「文学才女」の額を賜った。しかし彼女はひたすら武氏の兄弟を尊崇し、唐の家の子孫を苦しめたため、唐の旧臣徐敬业らが兵を起こして討伐するきっかけとなり、最終的に徐敬业の子である徐承志らに敗れた。唐の中宗が復位すると、彼女を「則天大聖皇帝」と尊称した。[33]

判艶

清代雑劇『判艶』(『武则天風流案巻』とも呼ばれる)において、武则天は在世中、国政に通じていたほか、風流な女性でもあり、死後には上帝から如意妃子に封じられ、女獄を監督した。中元節には、例によって幽霊を放つことになっており、武则天は昭容や上官婉児を招いて一緒に相談し、女幽霊たちを輪廻転生させることにした。[33]

子女

武周王朝系図】(編集
  • 網掛けは正史あるいは異説において、武則天によって処刑・賜死されたとされる人物。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖
李淵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)周顕祖
武華
 
韓王
李元嘉
 
霍王
李元軌
 
舒王
李元名
 
斉公
長孫晟
 
趙瓌
 
常楽公主
李氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太宗
李世民
 
魯王
李霊夔
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
楚王
武士譲
 
(追)周太祖
武士彠
 
上党公
李諶
 
黄国公
李譔
 
豫章王
李亶
 
趙公
長孫無忌
 
文徳皇后
長孫氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
廃后
王氏
 
 
 
 
 
 
范陽王
李藹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
善氏
 
 
武懐亮
 
魏王
武元爽
 
韓国夫人
武順
 
薛懐義
 
則天皇帝
武照
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高宗
李治
 
 
 
 
 
 
淑妃
蕭氏
 
越王
李貞
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武懐運
 
武懐道
 
魏王
武承嗣
 
賀蘭敏之
 
魏国夫人
賀蘭氏
 
城陽公主
李氏
 
安定公主
李氏
 
 
 
 
 
 
梁王
李忠
 
杞王
李上金
 
雍王
李素節
 
琅邪王
李沖
 
李規
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(前妻)
 
定王
武攸曁
 
 
 
 
 
 
太平公主
李氏
 
 
 
 
 
薛紹
 
中宗
李顕
 
沛王
李賢
 
(追)唐義宗
李弘
 
睿宗
李旦
 
(九子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
魏王
武延基
 
 
 
 
 
永泰公主
李仙蕙
 
邵王
李重潤
 
殤帝
李重茂
 
義豊王
李光順
 
(追)唐譲帝
李憲
 
玄宗
李隆基
 
 
 
 
 

男子

  1. 李弘
  2. 李賢
  3. 李顕
  4. 李旦

女子

  1. 安定思公主
  2. 太平公主
  3. 千金公主(養女) - 安定公主に改号

後世の評価

開元4年(716年)に武則天の子であった太上皇睿宗が没すると、玄宗は武則天の諡号から「皇帝」を除き、武則天の政策の否定や、彼女や武氏に粛清された人々の名誉回復に動き始めた[34]

後世の中国社会や文人界においては、女性でありながら君権の上に君臨し、唐室の帝位を簒奪した武則天の政治的遍歴に対する評価はおおむね否定的であり続け、簒奪に失敗した韋后の行実と併せて武韋の禍と呼ばれるなど、負のイメージで語られることが多かった。治世中の事績に関しても、彼女が施政した時代に浮戸逃戸が増大したこと、田籍の把握が等閑になって隠田の増加と均田制の実施困難を招いたこと、自身の氏族を要職に就けて政治をほしいままにしたことなどについて、現在も厳しい評価を受けている。

一方で、長年の課題であった高句麗を滅ぼし、唐の安定化に寄与した事実は見逃せない功績であるが、それは高宗がまだ重篤に陥っていなかった668年のことである。また、彼女が権力を握っている間には農民反乱は一度も起きておらず、貞観の末より戸数が減らなかったことから、民衆の生活はそれなりに安定していたと見る向きもある。加えて、彼女の人材登用能力が後の歴史家も認めざるをえないほどに飛び抜けていたことは事実であり、彼女の登用した数々の人材が玄宗時代の開元の治を導いたことも特筆に値する。歴史上にも僅かながら、彼女について「不明というべからず」と評した南宋洪邁毛沢東が愛読)や「女中英主」と評価した代の趙翼(現有制度の打破を叫んだ)のように、武則天に対して肯定的な評価を下した者も存在した。毛沢東夫人で文化大革命を指揮した江青に至っては、毛沢東の死後に後継者にならんとする野望を持っていたため、名実ともに中国の国政を握った武則天を自らに重ね、これを称賛する運動を興した。江青と文革は共産党に否定されたが、武則天を主人公とした連続テレビドラマも製作された(参照)。

国号「日本」と武則天

「日本」の国名について、『三國史記 巻第六 新羅本紀第六 文武王 上』には、「十年十二月。倭国更號日本。自言近日所出。以爲名。」とある。(三国史記 朝鮮史学会 昭和3年(1928年) p10 国立国会図書館デジタルコレクション 41/257コマ)新羅の文武王10年は、西暦670年。

大形徹はこれを「倭国あらためて日本となづく、自ら言う、 『日の出づる所に近く、以て名と為す』と」と読む。そしてこの記述は「宋、王溥撰『唐会要』(九六一成書)倭國」の項で「咸亨元年三月、遣使賀平髙麗、爾後繼来朝貢則天時、自言其國近日所出、故號日本國、盖惡其名不雅而改之。 (咸亨元年(670年)三月、使いを遣わし、高麗を平(たいら)ぐるを賀(よみ)し、爾後継いで来たりて朝貢す。則天(在位(六九〇‐七〇五)の時、自ら言う「其の国、日の出づる所に近し、故に日本国と号す」と。盖し其の名の雅ならざるを悪(にく)みて之を改む)と、新唐書そのままの記述としている。」と記している。(大形 徹 『國號「日本」の「本」はどのような意味か』 漢字學研究 第八號 立命館大學白川靜記念東洋文字文化研究所 [編]  立命館大學白川靜記念東洋文字文化研究所発行 2020年 p75~76 file.jsp (ritsumei.ac.jp) )

さらに大形 徹は「唐代の発音は地方に残っている。唐代に日本の使節が中国に日本と決めたことを報告したとき、当時の中国人が発音したのが「ニッポン」だったのだろう。日本の使者は、日本国内では「ひのもと」あるいは「やまと」と呼んでいたのかもしれない。しかし、「日本」という漢字二文字を中国に持って行ったときに、「ニッポン」という発音を教えられたのではないかと思う。」と記している。(同書 p82)

登場作品

『』は日本公開、「」は日本未公開の作品。

小説

戯曲

映画

テレビドラマ

漫画

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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