馮玉
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経歴
若くして科挙を受験したが、進士に及第しなかった。馮贇が河東節度使となると、馮玉は召し出されて河東節度推官となった。入朝して監察御史に任じられ、礼部郎中に累進し、塩鉄判官をつとめた。天福7年(942年)、少帝が即位すると、馮玉は妹の馮氏を後宮に入れた。外戚として少帝からの恩寵は厚かった[2][1]。天福8年(943年)、戸部郎中・知制誥から検校尚書右僕射・潁州団練使として出向した[3]。開運元年(944年)、戸部侍郎・端明殿学士に転じた[4]。開運2年(945年)2月、戸部尚書・枢密使に進んだ[5]。8月、中書侍郎・同中書門下平章事となり[6]、軍事と国政の大権を一手に委ねられた。開運3年(946年)、尚書右僕射を加えられた[7]。宰相として四方から収賄し、巨万の財産を蓄えた。張彦沢が開封府を陥落させると、その兵士たちは争って馮玉の邸を略奪し、蓄えた財産も一晩で空になった。馮玉は張彦沢にへつらい、契丹の太宗耶律堯骨に玉璽を送るよう願い出たが、張彦沢に拒絶された[8][1]。翌年、少帝に従って契丹に入り[9]、太子少保に任じられた。後周の広順2年(952年)、馮玉の子の馮傑が遼から後周に逃げ帰ると、馮玉は譴責を恐れて憂憤を抱きつつ、ほどなく遼で死去した[10][1]。