馮行襲

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馮 行襲(ふう こうしゅう、生年不詳 - 910年)は、末から後梁にかけての軍人は正臣。本貫均州武当県[1][2]

経歴

均州の都校を歴任した。中和年間、僖宗が蜀に避難すると、孫喜を首領とする反乱軍数千人が武当県に侵入しようとしたが、均州刺史の呂煜は恐慌を起こして無策なままであった。行襲は勇士を長江の南に伏せて、小舟に乗って孫喜を迎え、「均州の人はあなたのような良い刺史を得て、民心はあなたに帰そうとしています。ただ周りの兵が多いので、民は略奪を受けることを恐れています。もし軍を長江の北に駐留させて、側近を率いて均州に赴けば、それがしが先導をつとめますので、士民を安堵させ、平定することができるでしょう」と孫喜にいった。孫喜はこれを聞き入れて、少数の兵を連れて長江を南に渡ると、伏兵が現れた。行襲は孫喜を地に打ち倒して、懐剣でこれを斬り、その仲間たちも皆殺しにした。長江の北にいた反乱軍も全て潰走した。山南東道節度使劉巨容が行襲の功を言上すると、行襲はまもなく均州刺史に任じられた。均州の西に長山があり、盗賊たちが追剝ぎをおこなっていたが、行襲はまたこれを破った。洋州節度使の葛佐に召し出されて行軍司馬となり、兵を率いて穀口に駐屯して、秦蜀の道を開通させた。李茂貞が養子の李継臻を金州に派遣して占拠すると、行襲は金州を攻め落とし、金州防禦使に任じられた。山南西道節度使楊守亮長安を襲撃しようと、金州・商州方面に進出すると、行襲は迎撃してこれを破った。金州に戎昭軍が置かれると、行襲は戎昭軍節度使となった[3][4]

朱全忠が西征の軍を起こすと、行襲は副使の魯崇矩を派遣してその命令を受けさせた。唐の昭宗鳳翔府に避難し、朱全忠が軍を率いて迎えようとしたが、長らく出立しなかった。中尉の韓全誨が詔と偽って宦官の郤文晏ら二十数人を分遣して、江淮の兵を金州に駐屯させて、朱全忠の軍を脅かそうとした。行襲は策を定めてこれを皆殺しにし、その詔を回収して朱全忠のもとに送った。天祐元年(904年)、行襲は洋州節度使を兼領した。朱全忠が荊州襄州を征討すると、行襲はその子の馮勖に水軍を率いて均州・房州で合流させた。功により行襲は匡国軍節度使に転じた。着任すると、大官の張澄の罪を暴いて処刑し、許州の人々を恐れさせた。許州に在任すること3年、通常の供出のほか、別に軍糧20万石を進上した。朱全忠が祭天の儀式をおこなうにあたって、行襲は入朝して巨万の貢献をおこなったため、恩礼はことのほか厚かった。ほどなく勅命により翰林学士杜曉に徳政碑の文を書かせて行襲に賜った。官を累進して中書令を兼ね、司空に任じられた。長楽郡王に封じられた。開平年間、死去した。太傅の位を追贈された。は忠敬といった[5][6]

子女

  • 馮勖(長男、蘄州沁州刺史)
  • 馮徳晏(次男、金吾将軍)[7]

脚注

伝記資料

参考文献

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