高内秀剛
From Wikipedia, the free encyclopedia
生い立ち
1937年[5][6][3][7][8][9][4][19](昭和12年)[10][11][1][12][14][6][15][8]10月17日[1][17][8]、東京都に生まれる[5][10][11][1][12][6][3][7][15][17][8][9][4][19]。
東京都立文京高等学校時代には[12][27][9]、3年間ずっと同じクラスの同級生であり[27]、高内とは無二の親友となり長い付き合いとなる[27]、後に版画家となり東京芸術大学名誉教授となる中林忠良[27]と同じ美術部に入部し、代替わりを契機として2人で共に「活気溢れる新しい美術部」を作った[23][28]。高内と中林は共に芸大を志望し部室に籠もり[27]、見様見真似で油絵を描いたり石膏デッサンをしたり、また文学部や演劇部にも参加し、色んな仲間たちと共に青春を謳歌した[28]。
文京高校を卒業後[22][12][17][9]、芸大の図案科を目指したが、一度だけの挑戦で諦めざるを得なくなり[29]挫折した[22]。グラフィック・デザイン社を経て[22][7]仕方なく東京中央郵便局に窓口担当としてそろばんを弾きながら[29]勤務し[27]、阿佐ヶ谷美術学園(現在の阿佐ヶ谷美術専門学校)に通った[22]。
益子と陶芸との出会い
中央郵便局での三交替制の勤務の合間に美術学園に通い油彩を学んでも満足出来なかった高内は[22]、3、4年経った頃、中林に誘われるままに、たったの1日、物見遊山のつもりで[29]益子を訪れた[10][27][7]。
益子焼の様々な窯元や[7]民芸店を回るうちに[10]、「俺がやりたかった仕事はこれではないか?」と心が動かされた[10][7][23]。帰りの真岡線の電車の中で高内は中林に「指先に土の感触が残っている」とポツリと呟いた[27]。中林はその呟きを鮮明に覚えている[27]。これが高内の深いところでの「土との出会い」となった[27]。
そして郵便局で陶芸家になるための資金作りをしながら益子へ通い始め[10][7]、「江川製陶所」で陶芸の基礎である蹴轆轤の扱い方を、職人たちの見様見真似で習った[22][18]。
そして郵便局に勤めてから11年経った[10]1968年[6][7][4][19](昭和43年)[10][6][30][31][9][4]の暮れに[10]、必死の思いで貯めた60万円を手に益子町北郷谷に築窯し[30][31][8][9]、「子どもが100人くらい集まったような騒々しさや賑やかさ、そしてもっと欲深くエネルギッシュに作陶する」という願望を込めて[19]「百童窯」と命名し[19]、益子の住人となった[10][32][9][19]。
プレハブで周りを囲んだ小さな窯だった[31]。経済的にもとても苦しかった[31]。しかしそれでも念願の窯を持つことが出来て何でも出来るような気がした[10]。必ずいい物を作る、という意欲で益子での日々を楽しく過ごした[31]。
美術学校も出ずに師匠も持たず[33]、独学だった[10][7][23][8][4]。何もないからやりたいことを自由にやった[33]。それでも敢えて言うなら「見る人出会う人、周りの人々が皆、師匠」であり[7][18]、益子の中からでも外からでもどんなことでも吸収し[18]、「益子の枠」にとらわれない作陶活動を続けた[7]。
昔から何故か大きな物を作るのが好きで[24]、壺や大皿などの大物作りに[24]誰にも負けないぞ、という意気込みと共に[33]こだわった[7][18]。一つの粘土の塊から一気に豪快に仕上げていく[7]。その一方で轆轤での繊細な細工にもこだわった[7][34]。そして食卓で用いる食器や抹茶茶碗などの小物も手掛ける[18]。
また益子焼の伝統釉である黒釉、柿釉、灰釉を用いて、赤絵も手掛けた[22][7][18]。しかし益子焼追求していくと、どうしても「濱田庄司という存在」に突き当たってしまう、と思うようになった[19]。そのうちに「益子焼だけが焼き物じゃない」と考えるようになり[35]、そして若い人が育って欲しい、と願いながらも、益子焼から、そして民藝から離れていった[19]。
そして自由でありやりたい放題であり、「なんでもあり」と感じた「織部」に傾倒していった[19]。志野や[19]黄瀬戸や[19]瀬戸黒:引出黒[19]、そして緑色の織部釉である青織部を使い始め、技法も志野焼や瀬戸焼、そして織部焼へと傾倒していった[7][18][19][35][26]。
その究極の形が鳥の姿から着想を得た独特の形をした一連の「手桶」作品であり[7][26]、「織部手桶」と呼んでいる[18][9]ダイナミックな織部焼を追求している[36][26][9]。
そしてその独特な織部釉作品はいつしか「高内織部」と呼ばれるようになった[9]。
家族
弟子
脚注
参考文献
- 小寺平吉『益子の陶工たち』株式会社 學藝書林〈初版〉、1976年6月15日。 NCID BN13972463。国立国会図書館サーチ:R100000002-I000001346989, R100000001-I05111005010090347。
- 小寺平吉『益子の陶工たち』株式会社 學藝書林〈新装版(1980年)〉、1980年4月。 NCID BD03511919。国立国会図書館サーチ:R100000002-I000001474973。
- 株式会社無尽蔵『益子の陶工 土に生きる人々の語らい』1980年12月20日、58頁。国立国会図書館サーチ:R100000002-I000001494363。
- 下野新聞社『陶源境ましこ 益子の陶工 人と作品』1984年9月27日、26-27,138頁。 NCID BN1293471X。国立国会図書館サーチ:R100000001-I25110924685。
- 光芸出版編集部 編『最新 現代陶芸作家事典 作陶歴 技法と作風』株式会社光芸出版、1987年9月30日、357頁。ISBN 9784769400783。
- 淡交社編集局 編『現代の日本陶芸 関東Ⅰ』株式会社淡交社、1989年3月29日、94-97,140頁。ISBN 4473010856。
- 近藤京嗣『益子の陶芸家』近藤京嗣(自家出版)、1989年11月1日、100頁。 NCID BA34162878。国立国会図書館サーチ:R100000001-I09111100454281。
- 室伏哲郎『陶芸事典 Encyclopedia of ceramics』日本美術出版、1991年12月1日、34,292,703頁。ISBN 4938376091。
- 倉本秀清『益子探訪 -益子の陶芸家に学ぶ-』株式会社 光芸出版、1992年7月5日、2,59-74頁。ISBN 4769400977。
- 『炎芸術』阿部出版、1994年6月1日、24-27,48-49頁。ISBN 487242039X。
- 株式会社A&A PUBLISHING代表 清水元彦 編『美しい和食器の旅 益子・笠間・会津本郷・及びその周辺』株式会社リブロポート、1996年10月2日、9-11頁。ISBN 4845710943。
- 『季刊 陶磁郎 特集・益子・笠間を闊歩する』株式会社双葉社、1999年8月16日、28-29頁。ISBN 4575471852。
- 下野新聞社 編『とちぎの陶芸・益子』下野新聞社、1999年10月10日。ISBN 9784882861096。 NCID BA44906698。国立国会図書館サーチ:R100000002-I000002841202。
- 『やきものを愉しむ 陶芸生活のすべて◆作陶と盛り付けと器』株式会社 実業之日本社〈実用百科〉、2000年12月6日、11,15頁。ISBN 9784408625386。
- 藤森耕英(構成・執筆) 著、篠原未智子,秋山彰子 編『日本美術家事典 2001年版』オーアンドエム リミテッド、2001年3月1日、474-475頁。国立国会図書館サーチ:R100000001-I10111101541580, R100000001-I14211101013541, R100000001-I25111495728。
- 文・青木宏,写真・乾剛『益子・笠間』〈窯別ガイド 日本のやきもの〉2003年12月6日、40,112頁。ISBN 4473019411。
- 栃木県文化協会 著、栃木県文化協会栃木県芸術名鑑編集委員会 編『栃木県芸術名鑑 2007 平成十九年版』栃木県文化協会、2007年2月10日、86頁。国立国会図書館サーチ:R100000002-I000008485466。
- 季刊「炎芸術」編集部 編『釉薬の裏技』阿部出版株式会社〈陶芸裏技マニュアル〉、2009年2月1日、21-26頁。ISBN 978-4-87242-198-9。:高内秀剛による「織部釉」の解説記載。
- 矢部良明,他編集委員23名 編『角川 日本陶磁大辞典』(普及版)株式会社 角川グループパブリッシング、2011年2月25日、834頁。ISBN 9784046219657。
- 森善之(撮影),近藤小桃(文) 著、『花時間』編集部 編『やきもの、人、花、 陶芸作家の工房を訪ねて』株式会社エンターブレイン〈第2版〉、2012年2月16日、88-91頁。ISBN 9784047278769。
- 『ミチカケ 益子の人と暮らしを伝える 第9号(2017 秋)』益子町、2017年9月20日、43頁。栃木県立図書館検索結果,宇都宮市立図書館検索結果,益子町立図書室検索結果。