高向宇摩の名前が歴史上に現れるのは、『書紀』巻第二十三の、628年の推古天皇崩御後、誰を皇嗣とすべきかで蘇我蝦夷・阿倍内麻呂主導のもとで群臣が集まった際に、大伴鯨が亡き天皇は田村皇子を遺詔で指定したと発言し、采女摩礼志・中臣御食子らと共にそれに賛同した、ということと、この会合に不服を唱え、叔父の蝦夷の意向を尋ねようとした山背大兄王のところへ、その場に参加していた群臣らと共に蝦夷の代わりに使いに行った、ということのみである[2]。
以後、歴史書には一切登場していない。蘇我本宗家滅亡の際には、子・国押が蘇我氏を見限って、中大兄皇子に帰服している。
天武天皇13年(684年)八色の姓の制定により、高向臣氏は同年11月に他の52氏と共に朝臣姓を授与されている[3]