高安玉兎

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高安 玉兎(たかやす ぎょくと、明治21年(1888年)-昭和15年(1940年))は、琉球王国第二尚氏王統の分家士族である高安殿内の十三世。毛氏 我謝家の五男であったが、高安殿内十二世 朝常第二尚氏王朝17代国王 尚灝)に後継ぎがおらず、養嗣子となった。旧名は我謝盛翼

県立第一中(現首里高校)卒業後、中城・読谷山校で教鞭を取る。1911年台湾総督府阿侯庁財務課に務めたのち、1915年に琉球新報の記者となる。1918年より数年フィリピンへ留学し、1922年に首里市書記、1934年には首里市長に当選。首里バスの運行など首里市政への功績は大きい。

全名 我謝 盛翼(旧名)
死去 (1940-03-16) 1940年3月16日(51歳没)
沖縄県 首里市 当蔵町
配偶者 別記
高安 玉兎
たかやす ぎょくと
向氏高安殿内 十三世(第二尚氏王朝 分家士族)
那覇市歴史博物館 提供

全名 我謝 盛翼(旧名)
出生 (1888-12-09) 1888年12月9日
沖縄県 首里市 当蔵町
死去 (1940-03-16) 1940年3月16日(51歳没)
沖縄県 首里市 当蔵町
配偶者 別記
子女 別記
父親 養父高安朝常(第二尚氏王朝17代国王 尚灝の孫)
役職 首里市長(第5代)
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1888年:15世紀の按司である護佐丸 盛春を元祖とする毛氏 我謝家の五男として首里当蔵町に生まれる。 1906年:沖縄県立第一中学校を卒業。暫く中城・読谷山校で教鞭を取る。 1911年:台湾総督府阿侯庁財務課に勤務。 1915年:琉球新報社の記者となる。 1918年:フィリピンへ留学。 1922年:首里市書記となる。 1934年:第5代首里市長に当選。

その他、首里連合青年団 団長、沖縄県昭和会館 理事、首里市教育部会 会長、沖縄県校外教護連盟 副理事長などの要職を歴任。

同地区に邸宅を構えていた高安殿内に嗣子がなく、高安朝常(王孫)の養嗣子として家督を継ぐ。


市長としての功績

首里市長時代には、当時首里市と那覇市を繋いでいた新垣バスの買収に尽力した。

沖縄電気(株)による電車が主流であったが、バスの台頭や昭和初期の脱線事故により死傷者が発生したことなどがあり、1933年には沖縄電気による電車事業からの撤退がなされた。 そのため、バスは市民の公共交通機関としての利便性・財源として重要視されていた。

(当時首里市から那覇市へ通勤通学する人々は800人余りであり、また那覇市から首里市およびその中間に所在する学校に通学する生徒や教員は760名にも達していた)

当時、沖縄の自動車産業を独占状態であった新垣自動車に対して、市議会では「多少高価でも買収すべし」との見解で議会が一致し、新垣自動車の代表 金城氏との交渉が本格的に始まった。 買収に際し、交渉委員として玉城尚秀氏(第二尚氏王朝19代国王 尚泰 五男)、山口房良氏など6名が当時交渉にあたっていたが、交渉は難航した。 そこで玉兎が直接、金城氏と交渉を重ねることとなる。

争点となったのは純利益であった。 新垣側は最初の1年間の純利益を3万円と見積もり、その5年分の純利益を営業権譲渡価格として首里市に提示した。 それに対して玉兎は1年間の純利益を1万2,800円とし、その3年分を譲渡金額として交渉を行った。 長期間の交渉の末、1年間における純利益の試算ならびにその期間に関しても合意形成がなされ、無事玉兎の施政下で「首里バス」が導入されることとなった。

系譜

参考文献

関連項目

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