高安朝常

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高安(伊江) 朝常(たかやす ちょうじょう、同治4年(1865年)-昭和3年(1928年))は、琉球王国第二尚氏王統の分家士族である高安殿内の十二世。第二尚氏王朝 17代国王 尚灝の孫。唐名は向寛。

筆頭格御殿あった伊江御殿十一世伊江王子朝直の五男として生を受けたが、高安殿内十一世 朝規に後継ぎがおらず、養嗣子となった。

琉球王国古典音楽二大流派である野村流の奏者として有名である。1920年代には第二尚氏王朝 21代当主 尚昌氏、22代当主 尚裕氏の家職(書記)として仕えた。

全名 伊江 朝常(旧名)
死去 (1928-12-19) 1928年12月19日(63歳没)
日本の旗 日本
沖縄県 首里市 当蔵町
配偶者 別記
高安(伊江)朝常
たかやす ちょうじょう
向氏高安殿内 十二世(第二尚氏王朝 分家士族)
高安家 提供

全名 伊江 朝常(旧名)
出生 (1865-01-28) 1865年1月28日
琉球王国
首里 当蔵
死去 (1928-12-19) 1928年12月19日(63歳没)
日本の旗 日本
沖縄県 首里市 当蔵町
配偶者 別記
子女 別記
父親 伊江朝直第二尚氏王朝17代国王 尚灝の五男)
母親 安良城翁主(向氏摩文仁按司朝健〈摩文仁御殿〉の娘)
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第二尚氏王朝 筆頭格王族である伊江王子朝直の五男として生まれる。

朝直の子供たちの中でも朝常は特段の寵愛を受けたと伝わる。朝直は1972年に維新慶賀正使として明治天皇謁見し、琉球藩勅旨を受けて以来、石嶺の伊江御殿別邸庭園(国指定名勝)で生活することが増えた。

庭園には朝常を連れることが多く、庭遊びする幼い朝常を眺めながら静養していたと伝わる。 朝直は東京から持ち帰った梅を庭の築山に移させたとされる。

朝直は「これが育つ頃には、汝も大人になっているであろう。 大和世になっていること… 」とこの時朝常に話していたというが、朝常は当時この言葉の意味を理解することはできなかったという。

朝直は晩年、朝常の元服(欹髻)を早めようとしている。これは維新慶賀正使として、日本の文明開花に触れた朝直が大和世を予感しており、琉球式の元服(欹髻)をさせたいと考えての行動であったとされる。

高安殿内十一世 朝規養嗣子として迎えられ、高安殿内十二世となってもなお、晩年にはお伴に三線を持たせて伊江御殿別邸庭園によく出かけた。出かける時期は朝直が鉢から移させた梅が大きく育ち、花が咲く頃と決まっていた。そこで朝常は一人静かに三線を弾き、父朝直を偲んでいたという。

健堅与那(三線)

朝常は三線の奏者として名を馳せた。朝常はその実力から健堅与那という三線を賜っている。これは18代国王 尚育(朝常の伯父)より父朝直が拝領したとされる。

健堅与那は朝常の没後、1936年にハワイ在住の仲真良金へ渡った。

金武良仁(安冨祖流)との演奏会

朝常の三線の奏者としてのエピソードに松山御殿での演奏会がある。

尚順(尚泰王 四男)は芸能に関心が深く、ある夜、松山御殿にて野村流安冨祖流の名人を招いて演奏会を開催した。

野村流からは朝常と弟子の津嘉山朝度、安冨祖流からは当時全盛を誇った金武良仁とその弟子古堅盛保の4名が招かれた。

演奏は野村流からであり、最初に津嘉山が仲風を歌い、朝常が述懐を歌った。演奏後、朝常が「如何でしたか」と質問したところ、尚順は床の間の高名な鯉の掛け軸を指差し、「この絵のように何不足の無い素晴らしい演奏であった」と褒めたという。

続いて古堅が仲風を歌い、金武が述懐を歌った。黙り込んでいる尚順を見かねて「チャーデービルガ(いかがでございましたか)」と催促したところ、尚順は再び鯉の掛け軸を指差し、「ウレーイチンカイイッチョーサ(鯉は池の中に飛び込んでしまった)」と話したとされる。

系譜

参考文献

関連項目

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