高安朝常
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第二尚氏王朝 筆頭格王族である伊江王子朝直の五男として生まれる。
朝直の子供たちの中でも朝常は特段の寵愛を受けたと伝わる。朝直は1972年に維新慶賀正使として明治天皇に謁見し、琉球藩の勅旨を受けて以来、石嶺の伊江御殿別邸庭園(国指定名勝)で生活することが増えた。
庭園には朝常を連れることが多く、庭遊びする幼い朝常を眺めながら静養していたと伝わる。 朝直は東京から持ち帰った梅を庭の築山に移させたとされる。
朝直は「これが育つ頃には、汝も大人になっているであろう。 大和世になっていること… 」とこの時朝常に話していたというが、朝常は当時この言葉の意味を理解することはできなかったという。
朝直は晩年、朝常の元服(欹髻)を早めようとしている。これは維新慶賀正使として、日本の文明開花に触れた朝直が大和世を予感しており、琉球式の元服(欹髻)をさせたいと考えての行動であったとされる。
高安殿内十一世 朝規に養嗣子として迎えられ、高安殿内十二世となってもなお、晩年にはお伴に三線を持たせて伊江御殿別邸庭園によく出かけた。出かける時期は朝直が鉢から移させた梅が大きく育ち、花が咲く頃と決まっていた。そこで朝常は一人静かに三線を弾き、父朝直を偲んでいたという。
健堅与那(三線)
金武良仁(安冨祖流)との演奏会
朝常の三線の奏者としてのエピソードに松山御殿での演奏会がある。
尚順(尚泰王 四男)は芸能に関心が深く、ある夜、松山御殿にて野村流、安冨祖流の名人を招いて演奏会を開催した。
野村流からは朝常と弟子の津嘉山朝度、安冨祖流からは当時全盛を誇った金武良仁とその弟子古堅盛保の4名が招かれた。
演奏は野村流からであり、最初に津嘉山が仲風を歌い、朝常が述懐を歌った。演奏後、朝常が「如何でしたか」と質問したところ、尚順は床の間の高名な鯉の掛け軸を指差し、「この絵のように何不足の無い素晴らしい演奏であった」と褒めたという。
続いて古堅が仲風を歌い、金武が述懐を歌った。黙り込んでいる尚順を見かねて「チャーデービルガ(いかがでございましたか)」と催促したところ、尚順は再び鯉の掛け軸を指差し、「ウレーイチンカイイッチョーサ(鯉は池の中に飛び込んでしまった)」と話したとされる。