高山則通は、嘉永元年(1848年)長州藩士・高山鴻介(鴻輔)の長男として生まれた。従兄弟に高山廉二がいる。幕末期には原田謙吉の名で活動し、第二次長州征討では報国隊の五番小隊長を務めた。この隊には、のちに牧畜指導者として知られる桂弥一も青年時代に所属していた。その後、戊辰戦争にも従軍している。
明治維新後、明治4年(1871年)には陸軍中尉となり、翌明治5年(1872年)には兵学校大助教を兼任した。明治7年(1874年)には陸軍大尉に昇進した。
明治10年(1877年)の西南戦争では、近衛歩兵第1連隊第二大隊第三中隊長(大尉)として従軍し、戦闘中に負傷している。戦後も軍務に復帰し、明治15年(1882年)には金沢営所司令官副官を務めた。
明治18年(1885年)7月26日、病により死去。
二女・フジは、東洋拓殖総裁・久保田政周に嫁いだ。また三女・きみは、貴族院議員・神野勝之助に嫁いだ。