高山稲荷神社 (東京都港区)

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所在地 東京都港区高輪4-5-8
位置 北緯35度37分38秒 東経139度43分59秒 / 北緯35.6272223度 東経139.7331655度 / 35.6272223; 139.7331655
創建 不詳
高山稲荷神社

所在地 東京都港区高輪4-5-8
位置 北緯35度37分38秒 東経139度43分59秒 / 北緯35.6272223度 東経139.7331655度 / 35.6272223; 139.7331655
主祭神 宇迦之御魂神
創建 不詳
例祭 9月15日
地図
高山稲荷神社の位置(東京都区部内)
高山稲荷神社
高山
稲荷神社
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高山稲荷神社(たかやまいなりじんじゃ)は、東京都港区高輪神社

高山稲荷神社は約500年前に京都の伏見稲荷大社より高輪に勧請[1]されたと伝えられている[2]。江戸時代初期には現在とは異なる高輪の高台に鎮座していたとされ、その後、地形の改変や周辺環境の変化に伴い、少なくとも二度にわたって遷座したと考えられている。

江戸時代の高輪南部では、北側に薩摩藩島津家の敷地(現・グランドプリンスホテル新高輪周辺)、南側に久留米藩有馬家の敷地(現・品川プリンスホテル周辺)があり、その間を坂道(現・柘榴坂)が通っていた。島津家の高輪屋敷は17世紀後半(寛文年間)には成立しており、有馬家の屋敷も18世紀初頭までに当地に存在していたことが史料から確認されている[3]

明治元年(1868)9月20日、明治天皇は東京へ行幸になるため京都を出発され(東幸)、10月13日、高輪にあった久留米藩有馬頼咸邸にて小憩したと宮内文書[4]や毛利家所蔵の文献に記されている。

高山稲荷神社は、こうした有馬家屋敷の東側斜面付近に位置し、坂下からは同社へ通じる二百数段の石段が延びていたと伝えられる[5]。この地形に由来して「高山稲荷神社」と称されるようになったという。なお、近代以降の宅地造成や道路整備により、かつての高低差は大きく改変され、現在では往時の地形を明確に確認することは難しくなっている。

このように大名屋敷に囲まれた高台という地理的条件のもと、同社は周辺住民や屋敷関係者の信仰を集めてきたと考えられる[6]。久留米藩主有馬家は、江戸屋敷内(現・中央区日本橋蛎殻町)に筑後国久留米の水天宮を勧請し[7]、後に町民の参詣も許したことで、安産や子授けなどの信仰を集めたことが知られている。このように、有馬家は藩邸に由来する信仰を江戸の町人社会へと開いていく側面を有しており、高山稲荷神社をめぐる信仰も、こうした江戸における都市宗教的環境の中で形成・受容されてきたものと位置づけられる。

江戸方角安見図(現・品川駅高輪口界隈)[8]
江戸名所図会(手前は現・国道15号)[9]

明治5年(1872年)に長州藩毛利家の敷地となり(高輪邸)、その際に毛利家から社地の寄進を受け[10]、神社は高台の下へ移転した[11]。これが一回目の移転であり、現在の港区高輪四丁目10番23号(国道15号〈第一京浜〉沿い)である。

大正12年の関東大震災後、国道拡張により境内は縮小され、社殿の損傷も進んだが、昭和に入って熱心な氏子[12]により奉賛会[13]が設立され、昭和6年(1931年)に社殿が建て替えられた。奉賛会には毛利家、森村家、岩崎家などの名家が名を連ねていた。

昭和63年(1988年)には、約60年にわたり風雪に耐えてきた大鳥居および社殿の大改修が行われ、奉賛会および氏子の奉納と協力により改修が完了した。

令和5年(2023年)、国道15号(第一京浜)の拡幅事業に伴い、港区高輪四丁目5番8号への移転が決定され、2025年(令和7年)12月14日、新社殿の完成に伴い本殿遷座祭が斎行された。遷座祭では、仮殿に奉安されていた御神霊が新たな本殿へ奉遷され、神職および氏子、関係者が参列して修祓(しゅばつ)、祝詞奏上、玉串奉奠(たまぐしほうてん)[14]などの神事が行われ御神霊が新社殿へ奉遷された。これをもって二回目の移転が完了した。

高山稲荷神社は、高輪神社の宮司である瀧家が兼務している。

祭神

祭神である宇迦之御魂神は、日本神話に登場する神である。『古事記』では「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」、『日本書紀』では「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」と表記されている。

「宇迦」は穀物・食物を意味し、特に稲を指す語とされることから、宇迦之御魂神は穀物神、稲の神として信仰されてきた。「宇迦」は「ウケ(食物)」の古形とも考えられ、「御」は神聖さを、「魂」は霊的存在を表すことから、その名は「稲に宿る神聖な霊」を意味すると解釈されている。

『古事記』『日本書紀』の記述では性別は明確にされていないが、後世においては女神として扱われることが多い。

うかのみたまのかみ

おしゃもじさまの縁起

高山稲荷神社の境内には、「おしゃもじさま」と呼ばれる石灯籠(石神)が安置されている。 「おしゃもじさま」は、江戸時代に薩摩藩(島津家、現・グランドプリンスホテル新高輪周辺)の敷地と久留米藩(有馬家、現・品川プリンスホテル周辺)の敷地の境にあたる坂道沿いに存在した石神社(釈神社)に祀られていた道祖神に由来するとされる。この坂道は現在の柘榴坂にあたり、当時は「おしゃもじ横町」あるいは「石神横町」と呼ばれていたという。

この石神は、旅人の安全を守る道祖神として信仰され、里人の間では親しみを込めて「おしゃもじさま」と称されるようになったと伝えられている。また、立身出世、武芸上達、商売繁盛、縁結びなどのご利益があると信じられ、特に奉公人や女性の参詣を集めたとされる。

江戸時代には、その信仰の広がりが狂歌にも詠まれており、『狂歌江都名所図』[15]には「おしゃもじ横町」を題材とした狂歌が掲載されている。

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縁つきてままになるのも石神の利益をうけしおしゃもじ横町

足をさえ摺子木にして縁遠き下女が詣ずるおしゃもじ横町

【現代語訳(参考)】
縁に恵まれ、物事が思いどおりに運ぶのも、石神のご利益であり、ここは「おしゃもじ横町」。

これまで縁に恵まれなかった下女でさえ、足が疲れ果てるほど歩いて参詣する場所が「おしゃもじ横町」。
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大正・昭和期に入ると、周辺の旧大名屋敷地は宮内省用地(朝香宮邸・竹田宮邸・北白川邸)[16]へと変遷し、その過程で石神社は失われたとされる。その後、「おしゃもじさま」は高山稲荷神社に合祀[17]されたという。

現在も「おしゃもじさま」は、地域に受け継がれてきた信仰の対象として、同神社境内に祀られている。

おしゃもじさま

おしゃもじさまに関する後世の伝承・解釈

「おしゃもじさま」については、江戸初期の高輪・三田一帯におけるキリシタン弾圧の歴史と関連づけて解釈する、後世の伝承や見方も存在する。

高輪の隣の田町(現在の港区三田3丁目)では、元和9年(1623年)10月13日、江戸幕府によるキリシタン弾圧の一環として、宣教師や信徒ら50名が火刑に処されたとされる。同時代史料である『オランダ商館日記』には、処刑地について「東海道に沿った海の見える小高い丘」とのみ記されているが、かつてこの土地に所在していた智福寺(知福寺)の地だとされる[18]

智福寺は、寛永2年(1625年)に一空上人によって桜田元町付近に開創された後、幕府御用地化に伴い芝田町へ移転した。同寺に伝わる縁起や『港区史』などによれば、この移転先は、江戸初期のキリシタン処刑が行われたとされる刑場跡地で、長く空き地となっていた場所であり、「刑死した人々を弔うために寺院とした」とする伝承が残されている。

智福寺境内には、昭和31年(1956年)に『元和大殉教記念碑(江戸の殉教者顕彰碑)』が建てられ、昭和34年(1959年)に『都旧跡 元和キリシタン遺跡』の碑が建てられ、キリシタン殉教の地として記憶が継承されてきた。

その後、智福寺は周辺の都市化の進展と、崖下という立地条件を背景として、昭和41年(1966年)に現在地(東京都練馬区上石神井)へ移転した。この移転に際し、『元和大殉教記念碑』は聖マリア学園へ移設され、さらに後年、カトリック高輪教会[19](港区高輪4丁目)の聖堂前に移された。

こうした高輪・三田のキリシタン殉教史と関連して、有馬家の屋敷地内に石灯籠が設けられていたとする伝承や、その石灯籠が何らかの契機によって移設され、後に現在の高山稲荷神社に祀られるようになったのではないかとする説が語られることがある。この石灯籠が、現在「おしゃもじさま」と呼ばれる信仰対象と結びついたとする見方も、そうした後世の解釈の一つである。

キリシタン処刑地周辺の石造物については、長崎・西坂や京都・六条河原、東京・鈴ヶ森など各地においても、同時代史料による裏付けはないものの、後世になって殉教者供養と結び付けて解釈される例が知られている。これらは当初、無縁仏供養や境界守護などを目的として造立された可能性が高く、後世の信仰や地域伝承の中で意味づけが重ねられたものと考えられている。

ただし、高山稲荷神社の石灯籠(おしゃもじさま)についても、その設置や移設の経緯、またキリシタン処刑との直接的な関係を示す同時代史料や公式記録は確認されていない。現在では、江戸初期の宗教弾圧という歴史的背景のもとで形成された、地域に伝わる後世の伝承・解釈として位置づけられている。

土地の変遷と高山稲荷神社の継承

高輪・品川地域は、江戸時代の大名屋敷地(江戸藩邸)を起点として、明治初期の官有地整理、華族邸宅の成立、戦後の都市再開発へと大きな変遷を遂げてきた。本節では、こうした土地の所有と利用の変化をたどりながら、その中で高山稲荷神社がどのように継承されてきたかを述べる。

高輪から品川にかけての台地一帯は、江戸時代には諸大名の中屋敷・下屋敷が集積した地域であった。周辺には薩摩藩島津家久留米藩有馬家など複数の藩邸が所在し、屋敷地とその外縁を通る高台の道沿いには、石神や道祖神などの路傍信仰が存在していたとされる。高山稲荷神社の周辺も、こうした大名屋敷地と生活空間が接する場所であった。

明治維新後、旧幕府領および諸藩の江戸屋敷地は接収され、官有地として整理された。明治初期の官有地処分は制度が流動的であり、政府機関や皇室関連用地として留保される土地がある一方、不要と判断された土地については、華族や民間に対して下賜または払い下げの形で処分された。この過程で、高輪一帯にも華族の東京邸宅が形成されていった。

毛利家(旧長州藩主)の高輪邸成立の背景には、こうした官有地整理の具体的経緯がある。

毛利家は明治2年(1869年)1月、姫路藩酒井家上屋敷跡にあたる大手町邸(神田橋邸、現・東京都千代田区大手町一丁目)に移転したが、同地周辺が新たな官庁街として整備されることとなり、明治新政府から立ち退きを求められた。

その代替地として交渉の末に取得したのが、高輪に所在した久留米藩、有馬中務大輔頼成の下屋敷地約1万6,461坪(約5万4,420平方m)であった。この経緯は、毛利家文書『東京市芝区高輪南町貮拾七番地 公爵毛利邸起源略史』に記されており、同書は明治4年(1871年)7月24日付で、従三位・毛利元徳(公爵)が東京府に提出した陳情書に始まる[20]

当時、毛利元徳は神田橋邸とともに政府から下付された深川の屋敷に居住していたが、陳情書の中で「廃藩置県により知事職となり、従来の藩邸に滞在することができなくなったこと」「深川の私邸は土地が低く窪地にあり、永住には適さないこと」を理由に挙げ、代替地として「現在特段の御用もないように見える高輪の旧久留米藩邸地」を拝領したい旨を訴えている。明治4年当時、大名華族には東京居住が義務付けられており、東京を離れることができなかった事情も背景にあった。

この願いは受け入れられ、明治4年(1871年)8月、高輪の旧久留米藩下屋敷地を下賜することとなり、同地に毛利家の東京邸(高輪邸)が設けられることとなった。

その後、明治後期から大正期にかけては、宮内省所管地や宮家邸宅が周辺に点在するようになり、高輪一帯は華族・皇室関係者の邸宅地としての性格を強めた[21]

一方で、近代以降の宅地造成や道路整備により、江戸時代には高台であった地形の一部は切り崩され、平地化が進行し、古道や峠道の面影は次第に失われていった。

第二次世界大戦後、華族制度の廃止や制度改革を経て、これらの邸宅地は売却・取得を通じて民間利用へと移行し、品川・高輪周辺では大規模な再開発が進められた。現在の品川プリンスホテルグランドプリンスホテル高輪グランドプリンスホテル新高輪の敷地は、こうした戦後の土地処分と都市開発の結果である。

このような大名屋敷地、官有地、華族邸宅、そして都市開発へと至る一連の土地の変遷の中にあって、高山稲荷神社は周辺の変化を見守り続けてきた存在である。社地は時代ごとに移転や整備を余儀なくされたが、その都度、土地の関係者や地域住民、氏子の尽力によって祭祀と信仰が継承されてきた。高山稲荷神社は、高輪・品川地域の歴史的変遷を背景に、地域の信仰拠点として今日まで存続している。


久留米藩有馬家と長州藩毛利家

本節では、高輪の土地と関わった二つの大名家である久留米藩有馬家と長州藩毛利家について、江戸時代以前から近世初頭に至るそれぞれの歴史的背景と政治的立場の違いを整理し、その意味を位置づける。

有馬家は藤原北家を祖とし、九州において在地武士層として中世を生き抜いた家系である。戦国期から安土桃山期にかけては、九州という独自の政治・軍事環境の中で勢力を維持し、江戸時代に入って久留米藩主家として定着した。

一方、毛利家は鎌倉幕府御家人を祖とし、室町後期から戦国期にかけて中国地方を代表する戦国大名へと成長した家系であり、安土桃山期には豊臣政権の中枢に位置した。

関ヶ原の戦い(1600年)においては、毛利家が西軍に属し、毛利輝元は名目的に西軍の総大将格とされた。

一方、有馬家の当主であった有馬豊氏は東軍に属して行動した。戦後、有馬氏はその功により所領を安堵・加増され、江戸時代には久留米藩主家として確立したのに対し、毛利家は敗戦により大幅な減封を受け、長州藩主家として存続することとなった。

この結果、両家は近世初頭において、異なる政治的立場から江戸幕府体制に組み込まれることとなった。

このように、両家は同時代に存在しながらも、成立基盤や政治的舞台、中央政権との関係において大きく異なる歴史的軌道を歩んできた。江戸時代においては、ともに外様大名として幕府体制のもとに位置づけられたが、その来歴と政治的性格には明確な差異が認められる。

高輪の土地において、時代を異にして久留米藩有馬家と長州藩毛利家が関わることになった事実は、日本の中世から近世、さらに近代へと至る過程における大名家の盛衰と再編を象徴する事例の一つである。

高山稲荷神社は、江戸時代には久留米藩有馬家の下屋敷に近接する地に鎮座し、藩邸の守護や屋敷関係者の信仰の対象として位置づけられていたと考えられる。

明治以降、土地の所有主体が毛利家へと移行した後も、同家との関係のもとで社地の維持や整備が図られ、関係者や氏子の支えによって祭祀と信仰が継承されてきた。

このように高山稲荷神社は、時代ごとに土地を治めた大名家との関わりを持ちながら、高輪の地における信仰の連続性を保ってきた存在である。

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