高岡何有

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高岡 何有(たかおか かゆう、1914年1月12日 - 1989年2月21日)は、日本の日本画家。本名は徳夫徳島県徳島市出身。戦前から作家活動を開始し、戦後には徳島県の日本画壇において名実ともに県画壇を代表する画家の一人と評価され、中心的な役割を果たしたとされる[1][2][3]。京都市立絵画専門学校在学中および中村大三郎画塾在籍当時は、本名の高岡徳夫名義で記録されている[1][4] [5]

アトリエにて「青楓小禽」制作中の高岡何有(1983年)
生誕 (1914-01-12) 1914年1月12日
死没 1989年2月21日(1989-02-21)
国籍 日本の旗 日本
概要 高岡何有, 生誕 ...
高岡何有
1980年代
生誕 (1914-01-12) 1914年1月12日
死没 1989年2月21日(1989-02-21)
国籍 日本の旗 日本
出身校 京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)
職業 日本画家
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生涯

初期の経歴

高岡何有は、1914年(大正3年)1月12日、徳島市仲之町二丁目六番地に高岡隆助、チヨノの三男(徳夫)として生まれた。1931年(昭和6年)に徳島県立徳島中学校を卒業した[1][2]

京都時代(中村大三郎画塾時代)

1933年(昭和8年)に京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)予科に入学し、1935年(昭和10年)に本科に進んだ[5][4]。在学中は山口華楊および中村大三郎に師事し、特に加藤一雄から美学を学び、加藤に特に可愛がられ、私的な時間でも自邸にたびたび出入りしたり、近辺の散歩の伴をしたりするなど、親しい交流を持っていた[6]。画学生当時、高岡は加藤の自宅を頻繁に訪れ、放課後や夜に深い対話を交わす機会が多かった。加藤の家では美術史家たちが集まって夜遅くまで歓談する場にも同席しており、加藤の率直で時に辛辣な人間観察や、美術に対する真摯な姿勢に触れていた。加藤の家を訪れる頻度は非常に高く、ほぼ毎晩、あるいは少なくとも週に二回は通っていたという[6]。加藤の家を訪れることは、高岡にとって単なる師弟の関係を超えた、重要な学びの場となっていた。加藤は「東洋画は特に精神性の深いもの」と語り、高岡に対して「自分との延長線上にある」と位置づけながら、次元の高い話をして彼を導いていた。また、加藤の家を訪れるだけでなく、散歩や用事の付き添いもしており、丸太町を通って寺町の古本屋を訪れた後、「鎰屋」でコーヒーを飲むのが定番のコースであった。こうした日常的な交流を通じて、高岡は加藤から芸術における「どう描くか」ではなく「何故描くか」という本質的な問いかけを深く学んでいた[1][6]。加藤一雄の家は、高岡にとって京都での学生生活における精神的な拠り所の一つであった。加藤の率直な物言いや、美術に対する深い洞察は、高岡の以後の作家活動に大きな影響を与えている[1][6]

京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)在学中は中村大三郎画塾に所属し、公募展に作品を出品する傍ら、後進の指導も行った。同年には京都市美術展覧会および大阪市美術展覧会に入選している。高岡は中村画塾の門下生の中でも高岡はほぼ最若年であり、他の塾生の多くが明治生まれであったのに対し、大正3年生まれの高岡は際立って年少であった[5]。画塾の集合写真例えば「西山翠嶂と中村画塾懇談会」(京都ホテル、1935年頃)の写真では、他の塾生が袴を着用しているのに対し、高岡は学生服姿で写っている。この写真は京都府立堂本印象美術館発行の図録『特別企画展 翠嶂・印象・大三郎』にも掲載されている[7]。同塾での主な出品歴は以下の通りである[5][4]

入塾に先立ち、1932年(昭和7年)10月から11月にかけて大阪・中之島洋画研究所で木炭によるデッサンの修業を行っている。1933年(昭和8年)1月下旬、辻宇佐雄の紹介により中村大三郎画塾に入門した。当時の住所は京都市左京区吉田中大路二、縄田健藏方であった[8]

1938年(昭和13年)に京都市立絵画専門学校本科を卒業した[1][2]

徳島での画家・教育者としての活動

1939年(昭和14年)2月、保富豊子と結婚した。同年、徳島で「金泥会」を主宰し、田中良平・林鼓浪・山田金吾・大西角平らとともに活動した[1] [2][9]

1944年(昭和19年)から美術教諭として働き始め、徳島県立三好高等女学校徳島市立高等女学校徳島市立八万中学校徳島市立城西中学校徳島県立徳島商業高等学校徳島県立徳島工業高等学校などで教鞭を執った。1972年(昭和47年)に徳島工業高等学校を退職するまで、約28年間にわたり県内の学校教育に携わり、後進の育成に尽力した[2]。なお、当時の教え子に画家の小松久子、長尾弘子がいる[1]

画家としては、1950年(昭和25年)の第5回徳島県美術展覧会で奨励賞を「緑衣像」で受賞、1952年(昭和27年)の第7回同展で特選を「カンナ」で受賞するなど、県内展覧会で活躍した[1]。また、徳島新聞の文芸欄に「ふるさと断想」(三田華子文)、「阿波踊りの女」、「富子抄」(三田富子文)、「女のうた・阿波の民謡から」(檜瑛司文)など多数の挿絵を連載した[1]。そのほか、1965年(昭和40年)には徳島県立鳥居記念博物館の陳列棚デザインを監修し、1974年(昭和49年)には徳島郵趣会の暑中見舞いはがきの原画を描くなど、幅広い分野で活動した。1978年(昭和53年)には徳島ヨンデンギャラリーで「高岡何有日本画小品展(テーマ:花)」を開催している[1][9]

教諭時代の高岡何有(1950年)

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徳島日本画壇への貢献

高岡は、徳島県美術展覧会、徳島県博美展などにおいて、県内の後進の指導、画壇の育成に力を注ぎ、戦後の徳島日本画壇の形成と発展に大きな役割を果たした[9][2][10]

1946年(昭和21年)11月、戦災のがれきの中に外形だけが残った丸新デパートで開催された第一回県展では、多くの日本画家とともに高岡もこれを支えた。金泥会の会員でもあった高岡は、田中良平、山田金吾、大西角平、林鼓浪らとともに県展の運営に携わった[9]

特に大きな功績として挙げられるのが、常任委員として行った中央審査員の招へいである。[9]高岡は京都絵画専門学校の卒業生という人脈を活かし、第五回県展から中央の審査員を招へいするよう自ら京都へ赴いて交渉に当たった。これにより、山口華楊をはじめ、上村松篁西山英雄池田遥邨ら近代日本画の大家が審査員を務めるようになり、県展の権威と質の向上に大きく貢献したと評価されている[9]

その後も高岡は、1972年(昭和47年)にサロン・ド・トクシマ展に弟子の長尾弘子とともに日本画部門で出品し、1978年(昭和53年)には「日本画小品展」を開催するなど、精力的に活動を続けた。1983年(昭和58年)には「とくしま絵画選抜展」に出品した「青楓小禽」が、徳島駅前のアミコビルに常設展示されることになった[9]

さらに、1986年(昭和61年)に長尾弘子が始めた「長尾弘子塾展」に対して高岡はこれを「朱泥会」と命名し、翌年から「朱泥会展」として継続されるよう尽力した[9]

晩年と没後

1989年(平成元年)2月21日、死去した。享年75。前年の第43回徳島県美術展覧会「群れ竹」が遺作となった[1]。その後、1990年(平成2年)、徳島新聞社・朱泥会主催による「高岡何有遺作展」がそごう徳島店にて開催された[1]。同年3月20日、高岡何有画集編集委員会(高岡豊子)により『高岡何有画集』が徳島出版株式会社から発行され、井端好美(当時・徳島新聞社社長)は序文で高岡を「徳島画壇で別格にそびえる高峰」と評している[1][11][9]

人柄とエピソード

高岡何有は直観の鋭さが並外れており、教養豊かで温和な人柄であったと、同時代の画家や教え子たちから回想されている[1]

京都絵画専門学校時代の学友であった桑野博利(画家)は、高岡について「純粋さを大切にする人柄で、クラスの連中が描くものと違った清謐さの漂う画品のようなものを覗かせていた」と述べている。読書家でもあり、特に西行の歌を深く愛し、「願はくば花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」を度々口にしていたという[1]

長尾弘子(画家)は、17歳のころから40有余年にわたり高岡に師事した。彼女は「日本画を通じて、人間としていかに生きるかを教えていただいた」と回想し、高岡が「東洋画は特に精神性の深いもの」と語っていたことを記している。また、「画格のある絵を描け」と常に指導していたという。高岡は病床にありながらも県展出品作「群れ竹」を制作するなど、画家として最後まで純粋に制作活動を続けた[1]

小松久子(画家)は、市女(徳島市立高等女学校)で高岡に美術を学んだ一人である。高岡は「雨月物語」の講義をするなど、文学的なアプローチで生徒を惹きつけ、「絵かきは演出家である。その場合絵具は役者である」と語ったという。小松は高岡から写生の才能を認められ、芸術の道に進むきっかけを得たとして感謝を述べている[1]

高岡は京都の自然を愛し、徳島に戻ってからもスケッチブックを抱えて眉山などを散策していた。長尾弘子は、師・高岡の「私は一粒の種であった」という言葉を引用し、徳島で多くの人々が日本画を生活に取り入れているのは彼の貢献のたまものだと述べている。[1]

また、高岡は「悲しみは涙を誘うが、人生の本質とも言える哀しさには涙は要らない」という言葉を残している[1]

作風と評価

高岡何有の作品は、淡彩を基調としたち密で柔らかい筆致と、静かな情感を湛えた表現が特徴とされる。『徳島グラフ(1990年版)』は「ち密でいきいきと、そして、やわらかい日本画のもつ特性を十二分に発揮した淡彩で、味わい深い趣を表現する」と評しており、穏やかで繊細な色調によって画面を構成する姿勢がうかがえる[3]

題材については、徳島の自然や風物を好んで取り上げた。制作の合間をみつけては、よく散策に出かける瑞巌寺の四季の移ろい、美濃田の渕にたたえる水の碧さと岩の連なり、明谷の梅林仁宇谷茶畑阿南の竹、石井藤花など、地元に根ざした風景を多く描いている[3]。『近代徳島の美術家列伝』は、花木や小禽のスケッチを好み、細やかな観察力と「日常と乖離してしまわない制作の姿勢」が特徴であると指摘している[10]

井端好美(当時・徳島新聞社社長)は高岡の画風について「画格の端正」を認めつつ、その本質を「雅びとともに華やぎにある」と指摘し、「温容清雅に包んで、たとえば桃花の匂いたつような絵ごころをもっていた」と評している。また、晩年になるほど画風が若々しく、明るさを増していった点についても触れている[1]

高田保二(当時・徳島新聞社文化部長)は、特に「美濃田の渕」を例に挙げ、描かれた岩と水の表現が「色も形もあくまで静か」であり、「明鏡止水」とも言うべき清澄さと静謐さがあると評している。さらに高岡の絵全体の特徴として、「声高、饒舌、大げさな身ぶり等と一切無縁」であり、「関雅と気品」があると述べている。この静かな気品は、古人が「気韻生動」と呼んだものに通じるとも指摘している[1]

高岡の絵画の神随については、だれもが画格の端正をいう。全体として過度な装飾や劇的な効果を排し、静かな自然観照と内省的な情感を基調としている点に大きな特徴がある。こうした独特な作風は、師である山口華揚や中村大三郎から受けた影響を基盤としつつも、独自の論理による研究の視野をひろめながら柔らかさと気品を確立したものと見なされており、単なる技法の巧みさではなく、画面に宿る静かな品格と情感の深さが評価されていた[3]

スケッチと短文

高岡は日常的に徳島市内の眉山周辺などを散歩し、草花や小鳥のスケッチを好んで描いていた。描かれたスケッチには、時に短い文章が添えられることもあった。これらの短文には、偶然出会った人々とのやり取りや、身近な自然へのまなざしが綴られており、高岡の細やかな観察力と日常に根ざした制作姿勢がよく表れている。 以下は『高岡何有画集』に収録された三篇である[1]

  • 菖蒲のスケッチ(1979年6月6日)
 住吉の細い路地で、庭一杯に咲く大輪の花菖蒲を見つけ、写生をしていると、家の老婆が声をかけてきた。老婆は親切に株分けをしてくれ、さらに写生を許してくれた。高岡はその好意に甘え、路地裏の静かな庭で花菖蒲を写生した様子が詳しく記されている。
  • 藪柑子のスケッチ
 寺の境内で写生をしていると、大阪から来た若い女性が声をかけてきた。「何を描いているんですか」と尋ねる女性に対し、高岡が「藪柑子」と答えると、女性は「京都の街の名前みたいね」と返した。その何気ないユーモラスなやり取りが印象的に綴られている。
  • 朝顔のスケッチ(8月14日)
 朝顔を写生している足元に、キジ鳩が近づいてきた。鳩は積み重ねられた枯枝の中から1本をくわえようと何度も挑戦したが、枝が長すぎたためあきらめて飛び去っていった。その様子を観察した内容である。

文筆活動

高岡は徳島新聞文芸欄などにおいて挿画の連載などでも活躍し、多くの人々に親しまれた [10]。彼の随筆は、しばしば文学作品の一節を引用しながらの教養に裏打ちされた柔らかい語り口と、身近な題材から思索を広げていくスタイルが特徴的である。以下は『高岡何有画集』に収録された二篇である[1]

  • 「懐友記」(1961年12月、徳島教育掲載)
 京都時代の友人・二條敏基(澄水)との思い出を綴った随想で、冒頭にフランスの作家A・ボナールの言葉を引用し、友人との交流を通じて自身の来し方を振り返る内容となっている。横山男爵邸での一夜など、学生時代の貴重な体験が詳細に記されており、古美術への造詣の深さも感じられる。
  • 「新春漫語」(1985年1月4日、徳島新聞掲載)
 漢字の権威である諸橋轍次が牛へんの漢字を三百十一も挙げていることに触れ、人間と牛との深いかかわりを述べている。続いて中国絵画に登場する牛のモチーフを紹介し、漢の李密が黄牛の背で書を読む「動く書斎」の故事や、老子が青牛に乗って諸国を巡った逸話、「桃林の野に牛を放つ」という戦後の平和を象徴する故事などを挙げながら、穏やかで教養を感じさせる筆致で平和への思いを綴っている。

主な作品

高岡何有の作品は、淡彩を基調とした静かな情感と気品ある表現が特徴で、徳島の自然や風物を題材にしたものが多く見られる。1990年に刊行された『高岡何有画集』には、44点の主なカラー作品のほか、小品や新聞連載の挿絵原画、素描などが収録されている。代表的な作品として、以下のものが挙げられる[1]

  • 『潭・美濃田の渕』(1985年) - 吉野川治水百年記念「母なる吉野川絵画展」出品[10]。高田保二が特に高く評価した作品。
  • 『瑞巌寺錦秋』(1982年) - 『徳島グラフ』阿波路絵画巡礼に掲載。徳島県郷土文化会館に所蔵されている[12]
  • 『青楓小禽』(1983年) - とくしま絵画選抜展出品。徳島市所蔵[9]
  • 『群雀嘻遊』『桃花』『竹庭』(1986年) - 日本画三人展(長尾弘子・斉藤梅子と)出品。
  • 『群れ竹』(1988年) - 第43回徳島県美術展覧会出品(遺作)。
  • 『山吹き』『山藤』『牡丹(白・紅)』『芙蓉』『椿』『蠟梅』など - 花を題材とした作品。

その他、徳島県美術展や徳島県博美展には『緑衣像』(1950年、奨励賞)、『カンナ』(1952年、特選)、『水辺』『閑庭』『春暖』『紅葉』『秋日』『桜と小鳥』など多数の作品が出品された[1]

高岡の作品は、2013年に京都市立京セラ美術館に「山吹き」「潭・美濃田の渕」「朝顔」「芙蓉」の4作品が収蔵された[13]

参考文献

一次資料

  • 中村実氏所蔵「高岡徳夫入塾時履歴書」(中村実氏の許可を得て使用)
  • 中村実氏所蔵 中村大三郎画塾関係資料(中村実氏の許可を得て使用)

画集・図録

  • 『高岡何有画集』、徳島出版株式会社、1990年3月20日発行
  • 『近代徳島の美術家列伝』、徳島県立近代美術館、2000年
  • 『特別企画展 翠嶂・印象・大三郎』、京都府立堂本印象美術館、1999年10月4日発行

公式資料・ウェブサイト

書籍

  • 『戦後50年-徳島文化史』、徳島新聞社、1996年3月25日発行
  • 原章二『加藤一雄の墓』、筑摩書房、1987年8月1日発行

雑誌・論文

  • 『徳島グラフ』1990年8月1日号、徳島出版株式会社
  • 福田道宏「中村大三郎画塾『塾誌』について―翻刻と解題―」『美術フォーラム21』vol.16、2007年

出典

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