高柳直夫
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佐賀県出身。佐賀中学で2年間学び、知新館を経て[2]、海軍兵学校26期を59名中11番で卒業した[3]。同期に小林躋造、野村吉三郎、水野広徳などがいる。1900年(明治33年)少尉任官。日露戦争開戦を迎え、防護巡洋艦「秋津洲」砲術長として出征した。
高柳は第3回閉塞作戦に「江戸丸」 指揮官として参加する。「江戸丸」は「遠江丸」(本田親民少佐)、「釜山丸」 (大角岑生大尉)とともに第二小隊を構成し、中央左側に沈没させる予定であった[4]。1904年5月2日、林三子雄中佐を総指揮官とする12隻は閉塞に向かう。

しかしこの日の風浪は激しく、林中佐は中止命令を発し反転した。「江戸丸」は林中佐が乗船する「新発田丸」に続行したが、中止命令は届いておらず、また反転せず旅順口に向かう他船を見て再反転し閉塞に向かった[5]。閉塞部隊は分裂状態となったが、「江戸丸」は「遠江丸」ら4隻と一団となる。
ロシア軍の激しい迎撃を受ける中、高柳は船橋で指揮を執り、目標地点に到達したとして投錨用意を命じた[4]。高柳は羅針盤で位置を確認しようとした際、腹部に被弾し戦死した[4]。指揮官附・永田武次郎中尉は指揮を承継し、「江戸丸」を爆破させ乗員と高柳の遺骸とともに端舟で脱出に成功。「江戸丸」の戦死者は高柳と一等機関兵武藤弥七の2名であった[4]。高柳の墓所は佐世保東山海軍墓地にある[6]。
