高橋家 (子爵家)
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高橋家は、江戸時代には仙台藩伊達家の足軽身分の家柄だった[2]。
是清は芝露月町に住む幕臣の川村庄右衛門守房の子だが、生後すぐに是清は芝愛宕下町にあった仙台藩屋敷の足軽長屋で暮らす仙台藩足軽の高橋家当主高橋是忠の養子に入った[3][4]。伊達家と縁深い大崎猿町の寿昌寺の寺小姓になったが、仙台藩留守居役大童信太夫に抜擢されて、幼くして横浜で英語を学んだあと、仙台藩の命令で米国に留学[5]。
アメリカからの帰国後、大学少教授となり[6]、さらに文部省に勤務し、大阪英語学校長も務める[1]。農商務省調査課長[6]、専売特許局長、特許局長[1]、東京農林学校長などを務めた後[6]、明治25年に日本銀行入行[1]。さらに横浜正金銀行の副頭取に就任[1]。明治32年には日銀副総裁に就任[1]。
日露戦争中には英米に派遣されて外貨を獲得する活躍をし、その勲功により明治40年9月23日に華族の男爵に叙される[1][7]。
明治44年には日銀総裁に就任。大正2年には第1次山本内閣に大蔵大臣として入閣。原内閣にも蔵相として入閣し、大正9年9月7日の第一次世界大戦における勲功により子爵に陞爵し[1][7]、貴族院の勅選議員にも就任[6]。
そして大正10年に第20代内閣総理大臣兼大蔵大臣に就任した[1]。
大正13年1月22日に是清は隠居し、長男の是賢が爵位と家督を相続。さらに是清自身は、同年3月3日に高橋子爵家から分家して、平民籍の高橋家の戸主になっている[8]。この隠居と分家は、衆議院議員選挙立候補のため平民になる必要があったことから行ったことである[9]。衆議院議員当選後、加藤内閣に農林商工大臣として入閣、さらに田中義一内閣、犬養内閣、斎藤内閣、岡田内閣でも蔵相を務めたが、二・二六事件で暗殺された[1]。是清の先妻里ゆうは西郷利右衛門の娘。後妻志なは原田金左衛門の長女[8]。
大正13年から爵位を継いでいた是賢は、貴族院の子爵議員に当選して務めるとともに[8][6]、日本精工、台湾生薬、満州化学工業などの企業の社長を務めるなど実業家として活躍[6]。是賢夫人愛子は黒木為楨伯爵長女[8]。
彼の代の昭和前期に高橋子爵家の住居は東京市品川区上大崎にあった[6]。
是賢の長男には賢一(大正3年3月31日生)、その長男に秀昌(昭和22年8月22日生)、その長男に秀幸(昭和55年4月11日生)がある[8]。