高瑀

From Wikipedia, the free encyclopedia

高 瑀(こう う、生年不詳 - 834年)は、唐代官僚本貫冀州蓨県[1]

若くして兵を論じるのを好み、右金吾衛冑曹参軍を初任とし、節度使の従事を歴任した。陳州刺史蔡州刺史を歴任し、入朝して太僕寺卿となった。大和元年(827年)、忠武軍節度使王沛が死去すると、高瑀は宰相の裴度韋処厚の推薦により、検校左散騎常侍・許州刺史・忠武軍節度使に任じられた[2][1]

大和3年(829年)、検校工部尚書を加えられた。連年旱魃がつづき、民衆はしばしば飢えていた。高瑀は許州の民を召集すると、堤防180里を巡らせて築き、水の集散を平均化させて、飢饉の年をなくした。検校尚書右僕射を加えられた。大和6年(832年)、徐州刺史・武寧軍節度使に転じた[3][1]。大和7年(833年)1月、長安に召還されて刑部尚書となった[4]。6月、病のため辞任を求め、太子少保に任じられた[5]。8月、検校尚書右僕射・忠武軍節度使となった[6]。大和8年(834年)6月、死去した。司空の位を追贈された[3][7]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI